第6話 仮面夫婦の正しい日常
「お越しいただける日を心待ちにしておりましたよ。インツォリア夫妻」
店の前まで迎えに出て来たシェフに向かって、リーシアが柔らかな笑顔を向ける。
「それはこちらの台詞ですわ。今日のお料理とっても楽しみにしています。私、期待しすぎてお昼もあまり入りませんでしたの」
「妻はスコーンと紅茶を口にしただけでね。今にも倒れてしまわないか心配だ」
「あら、私が倒れたらあなたが支えて下さるでしょう?旦那様」
「勿論だよ、可愛い人」
蕩けるような笑みを浮かべ合って、抱き寄せたリーシアの髪に優しくキスを落とす。
肩を抱く手はそのままに、店内へとエスコートするレオの姿に、給仕の女性がぽわんと呆けた顔になった。
「奥様はお花がお好きなので、テーブルフラワーも可愛らしい色合いのもので纏めてみました」
「まあ素敵!私がプリムローズを好きな事、ちゃんと覚えて下さっているのね」
「ご主人からご予約を承った際に、御指示が」
「妻を喜ばせる為には、用意周到でいないと」
「あなたがして下さる事なら私はなんでも嬉しいのよ、御存じ?」
「おや、私の機嫌を取るのが上手だね、奥方」
ひょいと眉を持ち上げて見せたレオに、リーシアがわざとらしく唇を尖らせる。
いつもの社会貢献活動とは打って変わった子供っぽい表情に、夫婦のプライベートを垣間見てしまった罪悪感と特別感で給仕たちが一斉に頬を染めて視線を逸らす。
予約していた個室に通されると、たしかに愛らしいプリムローズのアレンジメントがお出迎えしてくれた。
「ああ、いいよ。私が」
椅子を引こうとした給仕を軽く手で制して、妻をエスコートした後でレオが向かいの席に腰を下ろす。
うっとりと小さな薔薇を見つめる妻を幸せそうに眺めてから、レオが食前酒を運ばせるように依頼した。
仲睦まじい夫婦の様子に見惚れていた給仕が、名残惜しそうに個室を出ていく。
ドアが閉まった途端、空気が一変した。
「この薔薇は持ち帰るわ、構わないでしょ?」
「そのつもりで用意させたんだ。後で俺から言うよ」
「ええ、お願い。シェフは、来月開かれる中央都市の外交晩餐のメンバーに選ばれたそうだから、帰り際にお祝いと激励を」
「それは知らなかったな・・すまない、助かった」
「私も昨日聞いたのよ。さっきの挨拶で言わなかったから、知らないだろうと思ったわ」
「昨日は、メルロ夫人のサロン?」
「ええそう」
「すっかりサロンメンバーになってるんだな」
「集まる女性の年齢層が幅広いから、色々と便利なのよ。学ぶべきことも多いし」
「そうなのか」
プリムローズの花弁に触れながら必要な情報だけを口にする。
二人きりの時は大抵がそうだ。
ノックの音がして、給仕が食前酒を運んで来た。
リーシアは打って変わった優しい表情になって、プリムローズの花びらを指で弾く。
「きみの好きなシャンパンが届いたよ。薔薇じゃなくて少しは私のほうも見てくれないかな?」
乾杯しよう、とフルートグラスを持ち上げるレオに、弾けるような笑みを向ける。
「あなたとはいつも顔を合わせているでしょう?そんなに私の顔が珍しい?」
「どれだけ見ても飽きることは無いよ。美味しい料理に舌鼓を打つきみの顔は、まるで子供みたいだからね」
「旦那様、そこは素直な表情が可愛いねって褒める所ですのよ?」
「なるほど。膨れっ面のきみも可愛いよ」
そう言って視線を合わせてグラスを鳴らす。
前菜から始まったコースは、リーシアの好物で溢れていた。
春野菜のサラダに、滑らかな舌触りの豆のポタージュスープ、脂身の少ないステーキに合わせるのはレモンソース。
定期的にこの店を訪れるのは、おしどり夫婦としての評判を維持する為なのだが、料理はどれもリーシアの好みで毎回ハズレが無い。
二か月に一度、夫婦の休日を演出するために、観劇、もしくは百貨店で買い物をした後に、必ずレストランに立ち寄ることにしている。
最初にリーシアが店の味を気に入ってから、毎回レオはここに連れて来るようになった。
外向き妻業に精を出すリーシアへの労いの一つなのだろうと受け止めている。
勿論、演出の一環ではあるのだが。
デザートのチョコレートケーキが運ばれたタイミングで、リーシアは今日一番の議題を取り上げる事にした。
アパルトマンに戻れば、各自が自室で過ごすので、話をするチャンスは此処しかないのだ。
いつもは移動中の車内で相談や報告をしあう事もあるが、今日はタクシーで来たのでそれが出来なかった。
「相談があるんだけど」
「なんだい」
「エレーナが二人目を妊娠したの」
「・・それは・・おめでたいね」
「スティーブンから何も訊いていないの?」
「俺たちはきみらと違って、しょっちゅう電話し合うような仲じゃないよ。忘れた頃に手紙を送り合う程度の仲だ」
「一人目の時は、お祝いをきちんと選ぶ時間が無かったから、今度はちゃんとした物を贈りたくて、事前に相談しに行こうと思うのよ。ヴィルトの時は悪阻も酷かったから心配で」
「・・・ああ、いいんじゃないかな。よろしく伝えておいてくれ。何泊してくる?」
「二泊のつもりよ、教会のバザーまでには帰るわ」
「分かった」
淡々と紡がれる会話は、殆どが活動報告のようなものだ。
インツォリア家のマナーハウスに出かける事を了承して貰えてホッとしたリーシアの前に、手つかずのチョコレートケーキが差し出される。
レオは余程の事がない限り、甘いものを口にしないのだ。
「次からデザートは不要だと事前に伝えるべきかしら?」
「きみに食べさせるつもりで頼んでるから問題ないよ」
「ああ・・・そう・・」
リーシアとしては、レオがエレーナに好意を抱いていた事を承知の上で踏み切った結婚だ。
父親の病状のせいもあって、後には引けない状態だったし、それが最善の方法だと思えた。
スティーブンに向けて抱いた淡い感情は、本当に仲睦まじい二人を見ているうちにいつの間にか消えて無くなっており、今では家族愛だけが生きている。
レオの気持ちが未だにエレーナに向かっているのは間違いないようで、結婚してからも、兄夫婦の屋敷を訪問するたび分かりやすく彼は不機嫌になった。
スティーブンに愛されて幸せそうにするエレーナを見たくないのだろう。
それなら、と自分一人で訪問する旨を告げれば、今度はばつが悪そうな顔になる。
あまり関わって欲しくは無いのだと理解してからは、極力エレーナとは電話と手紙で連絡を取り合ってきた。
前回の妊娠中も、姉の体調を理由に、マナーハウスに滞在してエレーナの身の回りの世話をしていたので、今回も許可を貰えるだろうと踏んでいたが、その通りになって良かった。
万一行くなと言われれば、リーシアの立場で否は言えない。
父親亡き後、行き場を失った姉妹を快く引き受けてくれた恩があるし、未だにリーシアとの結婚生活を続けてくれている事にも感謝している。
おしどり夫婦のイメージ維持の為とはいえ、彼は結婚してからも愛人を囲う事もなく、それを匂わせる行動を取った事も無い。
娘二人の婚約を見届けて天国へ旅立った父親はもうこの世にはいないので、リーシアの願いを聞き続ける必要はどこにもないのだ。
彼を縛り付けているのは、責任感、ただそれのみ。
スティーブンとエレーナの手前、気軽に離婚を切り出すことも出来ずに、不満を抱えたままこの結婚生活を続けている。
リーシアに出来る事は、彼の体面を保つ努力を怠らない事だけだ。
レオが、リーシアを必要ないと言い出すまでは。
「裏通りに中央都市のショコラティエがお店を出したらしいよ。人気店みたいだから、一度買ってこようか?」
「お願いできる?出来るだけ種類が多いものが嬉しいわ、サロンに差し入れできるから」
「分かった、そうしよう」
頷いたレオによろしくね、と呟いて、二人分のチョコレートケーキを頬張る。
大好きな甘いチョコレートケーキが、二人きりの時は驚くほどしょっぱくなる。
多分、このチョコレートケーキを甘く感じる日は、一生来ないのだろう。
潮時が分からない夫婦生活は、まるで切れ目のないマーブル模様だ。
見つめ続けていると気持ちが悪くなって、忘れてしまいたくなる。
それでも自分から終わらせることは出来なくて、意識を切り替えようとリーシアは冷めた紅茶を飲んだ。
「来週末までに、どこかで時間を取れるかしら?市議会のパーティー出席者の事前情報を共有しておきたいの」
「スケジュールを確認するよ」
「マーカスから報告させてくれて構わないわ、旦那様は忙しいから」
多忙な彼に無駄な時間を割かせるわけにはいかない。
「・・・最近マーカスと仲がいいんだな」
「あなたの秘書ですもの、問題ある?」
言われた意味が分からず首を傾げれば。
「いや、ないな、全く」
平坦な声が返って来た。
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