第16話 おしどり夫婦の正しい生活

「ベッドが一つしかないのよ!?信じられる!?」


アパルトマンの元私室に、電話線を限界まで引っ張って閉じこもったリーシアは、キッチンに立つマーサに聞こえないように受話器に向かって声を潜めて嘆いた。


妹の全力の愚痴を聞いた身重のエレーナは、電話の向こうでコロコロと声を弾ませる。


リーシアの困惑をむしろ面白がっている風だ。


実の姉の他に、こんな泣き言を漏らせる相手はどこにもいない。


インツォリア夫人となってから、様々な交流を通して仲良くなってきた女性たちは、皆一様にインツォリア夫妻がおしどり夫婦だと信じて疑わない人たちばかりなのだ。


そう見えるように全力で振舞ってきたのだから当然の結果なのだが。


まさかリーシアが、結婚三年目にして初めて夫と同じベッドで休むことになって、寝不足の日々に思い悩んでいるなんて、想像すらしていないだろう。


だから、エレーナにはどうしてもリーシアの想い全てを受け止めて欲しかったし、相談にも乗って欲しかった。


それなのに。


「上手く行ったようで良かったわ。天国の父さま達も一安心ね」


なんて明るい声で返されて、リーシアは歯噛みする思いがした。


「上手く行くも何も、私は困ってるのよ!?」


「あのね、シアちゃん。普通の夫婦は寝室は一つで、当然ベッドも一つなのよ。これまでのあなた達の夫婦生活が異常だっただけで、やっと正常に戻ったんだから、いいじゃない」


至極真っ当な意見を述べられて、思わず頷きそうになっていやでも、と思い止まる。


「だ、だけど、私とレオはつい最近心を通わせたばかりなのよ!?」


「結婚する手間が省けて良かったじゃない。いつ子供が出来たって誰にも咎められないわよう。むしろ祝福の嵐でしょうね」


「私はあの人の隣で穏やかに眠る事なんて出来ないのよ!!」


「まあ、早速朝まで励んでいるの?シアちゃんの身体が心配だわぁ」


無理だけはしないでね、と付け加えられて、姉がとんでもない思い違いをしている事に気づいた。


「待って、レイ、違うのよ」


「何が違うの?」


「・・だから、その・・・ないのよ」


「え?」


極々小さな声で呟いたリーシアの声を拾って、エレーナが訝し気な声を上げる。


「まさか・・・あなた達・・・この三週間なんにもしていないの?」


驚くよりも呆れた声で嘆かれて、リーシアは叱られた気分になった。


最初の初夜で躓いた花嫁の気持ちなんて、すでに一児の母であるエレーナには一生分かるはずがない。


「・・・だ、だってレイ」


「シアちゃんが拒んだの?」


「そ、んなことは・・ない・・と、思うわ」


そもそも二人きりの寝室でどういう雰囲気になればそうなるのか、行為自体は分かっていても、それまでの過程が分からないのだ。


途方に暮れたように、リーシアは正しい夫婦生活を始めた最初の日の事を、思い出していた。




★★★★★★



「私のベッドはどこ!?」


愛と夢に溢れた幸せなミュージカルの余韻も吹っ飛ぶ勢いで、リビングの真ん中に立ち尽くしたまま、リーシアは大声で叫んだ。


今朝出かける前には確かにあったはずの、リーシアの私室のベッドが綺麗に無くなっている。


それどころか、リーシアの私室だった客室は、見事に模様替えされて、座り心地の良さそうなソファセットが置かれた素敵な応接へと変身していたのだ。


もしやと思って、レオの私室のドアを開ければ、壁際にリーシアのドレッサーが設置されており、水色だったベッドカバーは優しいアイボリーの生地に蔓草模様が描かれた真新しいものに変わっていた。


二人で使っても余る位の数の枕にはお揃いの枕カバー。


ウォークインクローゼットは確かめるまでもないだろう。


これだけ大掛かりな改装があったのだから、当然ながら、通いの家政婦であるマーサは全てを知っている筈である。


分かりやすく涙目のリーシアから視線を逸らしたマーサが、重たい溜息を吐いて、咎めるようにレオを見上げた。


「旦那様・・・」


「だいじょうぶ、だいじょうぶ。問題ないよ。ご苦労だったね、今日はもう帰ってくれて構わないよ」


鷹揚に頷いて、荷物をまとめるように指示を出したレオは、愕然とするリーシアの肩を優しく抱き寄せた。


「昨夜相談して決めただろう?ミュージカルが楽しすぎて忘れてしまったかな?」


「・・・」


相談なんてされただろうか、と眉間に皺を寄せながら昨夜の記憶を手繰り寄せて、ワインの酩酊感に溺れながら交わした会話を思い出した。


そして、顔から火が吹いた。


耳まで真っ赤になったリーシアの顔を覗き込んで、レオが嬉しそうに目を細める。


「思い出してくれたみたいで良かったよ」


「あ、あれは・・・」


妙齢の未婚女性は勿論のこと、既婚女性も、夫婦生活のアレコレを熱心に聞きたがる。


特に結婚三年目でも未だに新婚そのもののようなおしどり夫婦の妻を前にすれば、こぞってその手の話題に触れたがった。


評議会や、視察の際には絶対に話題に出来ないそれは、個人のサロンや婦人会で何かのついでの様に切り出されるのだ。


読み漁って来た恋愛指南書の際どい説明文や、タウンハウスの使用人から妻の役割として授けられた知識や、これまでのサロンで聞きかじって来た情報を使って上手く乗り切って来たのだが、具体的な事を尋ねられると、経験のないリーシアにはまともな答えは紡げない。


何より、レオが自分を心から愛してくれているのだという事実を受け止める事に精一杯で、その先にある夜の営みについてまで頭が回っていなかったのが現状だ。


これまで仮面夫婦として過ごして来た三年を、これからゆっくりと取り戻して、新しい関係を築いていければと思っていたリーシアにとって、酔った勢いで上手く丸め込まれた今回の模様替えは、容易に受け入れられるものでは無かった。


「俺はきみが部屋に戻ってから、眠るまでの時間をどんな風に過ごしているのか知らない。それを、少しずつでいいから教えて欲しいんだ」


「ベッドを撤去するのは少しずつじゃないわ」


「これから誰かが我が家に訪ねて来た時どうする?今までは、仮面夫婦だとバレないために、食事会は全てレストランで行って来たけれど、俺達夫婦だけ、自宅に客人を招かないのはやっぱり不自然だよ。本当は、きみに伝えていなかっただけで、これまで何度もバートンから、夫婦でディナーに招かれてるんだ。毎回予定が合わないと誤魔化して来たけれど、俺としては、彼の奥さんにもきみをちゃんと紹介したいよ」


確かにレオの言う通り、仲の良い夫婦が自宅を行き来し合うのは珍しい事ではない。


これまでが、不自然すぎたのだ。


勿論、レオから、バートン夫妻の自宅に招かれたと言われれば、外向きの妻の仮面をかぶって参戦しただろうが、彼はそうさせたくなくて、招待を断り続けたのだろう。


リーシアの負担を少しでも減らすために。


インツォリア夫人として、必死に走り続けて来たこの三年、外向きの妻以外の立場では、一切歩み寄ろうとしないリーシアを、いつも守って来てくれたのは、間違いなく彼なのだ。


唐突過ぎる変化に、気持ちがついて行かないだけ。


そして、自分の性格を考えても、ここで折れておかなくては、また以前のような関係に舞い戻ってしまう気がした。


「わ・・かったわ」


「良かった。じゃあ、まずは眠るまでの時間を共有することから始めよう」


その言葉は、リーシアの強張った表情をほんの少しだけ緩めてくれたけれど、その日の夜、シャワーを浴びて、夫婦のベッドルームに足を踏み入れたら、やっぱり身体も表情も強張ってしまった。



★★★★★★



「それで?ベッドに入って眠るまでの間、二人で何をやってるの?」


「眠くなるまで本を読む事にしたのよ」


「まさかお菓子のレシピ本じゃないわよね?」


「読んでるのは私が、女性たちの質問に答えるために買いこんだ恋愛指南書よ」


その本を選んだのはレオだった。


枕元に差し出されたそれを見た時には、上掛けに潜って逃げたくなったが、当然彼はそれを許さなかった。


「夫婦がベッドの中で読む本として、それはどうなの・・?」


まあ、二人がいいならそれでいいけれど、とエレーナが投げやりに返す。


「普通はどんな本をベッドで読むのよ」


恋の駆け引きも知らず、正しい夫婦の在り方を知らないリーシアにとっては、何もかもが未知数だ。


エレーナはとっくの昔にそれら全てを経験済みなのだから、素敵なアドバイスが貰えると踏んでいたのに、返って来たのは極々素っ気ない一言だった。


「・・・それはレオに訊いて頂戴」


とりあえず幸せそうで良かったわ、とエレーナが呟いた。

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