第15話 おしどり夫婦の恋の駆け引き
「そろそろ会場に到着するから、機嫌を直してくれないかな?」
困っているというよりは、むしろ楽しんでいるような表情で、レオは助手席に視線を向けた。
見えて来たカンティーナ劇場の周りは、すでに観客や記者で溢れている。
本日初日を迎えるミュージカルは、隣国で人気の恋愛小説にアレンジを加えたもので、大人から子供まで楽しめる内容になっていた。
数か月前からリーシアが楽しみにしていたミュージカルである。
レオとリーシアの関係が、仮面夫婦でなくなった次の週末からレオは夫婦同伴で行事に参加する時には自分で車を運転するようになった。
これまでは、夫婦仲の良さをアピールするために、毎回送迎を依頼していたのだ。
おしどり夫婦を下ろした後には、すかさず運転手へ記者からの質問が飛ぶので、それを見越して仲睦まじい様子を見せるようにしていた。
けれど、二人の関係が変化した今、運転手はむしろ大きなお邪魔虫である。
リーシアは人目があるとすぐに外向きの妻の仮面をかぶるので、思うようには口説けない。
どんなに甘い言葉を囁いても完璧な妻の顔で夫を嗜めてみせるのだ。
だから、二人の仲を進展させるには極力二人きりでいる方が良い。
最近見せてくれるようになった膨れっ面で窓の外を眺めながら、リーシアが憤然と言い放つ。
「ノックで起こしてってお願いしたわ」
「ああそうだね。聞いたよ」
「だったら」
「それなら、あのまま後5分寝かせておいた方が良かったかな?」
そんなわけはない。
リーシアの身支度の時間を逆算してぎりぎりまで寝かせておいてあの時間だったのだ。
シャワーブースに飛び込むリーシアに、残り時間を伝えた時のレオの顔は満面の笑みだったけれど、苦労した素振りを見せておく。
「~~っ二度目はないわ」
レオはハンドルから片手を離すと眉を下げて、苦り切った顔で言い返したリーシアの後ろ頭を優しく撫でた。
「甘やかさないで」
「甘やかされていると思ってくれてるならそれでいいよ」
精一杯剣呑な眼差しを向けて来るリーシアを一瞥して、レオは頬を緩める。
怒っているのではなくて、困惑しているのだ。
結婚祝いに大量に贈られたきり、寝かせていたワインボトルを開けようと言ったのは、多少の下心があったから。
二人がお互いの気持ちを素直に告白してから、アパルトマンでの暮らしぶりは大きく変わった。
というか、レオが変えるように仕向けた。
リーシアがすぐに私室に逃げ込まないように、帰宅してからこなす仕事をいくつも用意しておくことにしたのだ。
出来る限り夕食も家で摂るようになったので、マーサには仕事内容が一つ増えた。
夫婦二人の晩餐の準備だ。
とはいっても、メイン料理一品を用意するだけで、残りはリーシアが副菜やスープを用意する。
二人きりの細やかなディナーはこれまで食べたどの高級料理よりも美味しくて、幸せを運んでくれた。
これまでは、マーカス経由で行っていた報告も全て、レオとリーシアの間で行うようにした。
その日あった出来事は、出来るだけ早めに共有した方が良い、という尤もらしい理由を掲げれば、真面目なリーシアに否は無い。
食後に、新しく知り合った人の名前や職業の情報交換をした後は、次の同伴外出に向けての衣装合わせをする。
おしどり夫婦を演出するようになってから、かならず色や柄を合わせて夫婦でコーディネートを揃えて来た。
これまでは、レオの外出中に、リーシアが二人のクローゼットを漁ってコーディネートを用意しておいたのだが、それも毎回相談しながら二人で選ぶ事にした。
ウォークインクローゼットに籠って、鏡の前であれこれと衣装替えをするのは、ひたすらに億劫だと思ってきたけれど、可愛い妻と二人きりの時間だと思うとそれさえ楽しくなるから不思議だ。
その後は、近々出かける予定の支援団体や慈善活動について意見を出し合ったり、挨拶をする予定の人物について確認したりする。
それら全てが終わる頃には、リーシアの緊張も解けているので、そこからが本当の夫婦の時間だ。
あのまま仮面夫婦を続けていたら、きっと永遠にコルクを抜く日は来なかったに違いない赤ワインの味を噛み締めながら、ほんのり染まっていく妻の頬を真横でのんびりと眺める。
リーシアは酒が飲めないわけではないが、決して強くはない。
公の場では、乾杯以降は一杯も手を付けないようにしていた。
ここは自宅だし、ベッドルームはすぐそこだ、眠ってしまっても問題ない。
躊躇うリーシアにお代わりを注いでやって、とろんと瞳が蕩け始めた頃に用意していた台詞を口にした。
「そろそろ寝室を一緒にしない?」
仮面夫婦として生活を始めた二人なので、ベッドルームは二つ必要だったが、お互いの気持ちを確かめ合った今となっては、一つでもなんら問題はないはずだ。
リーシア的には問題は大ありだろうが、恐らく彼女のペースに合わせていたら、何年たっても二人の仲は進展しない。
「俺たちはもう正真正銘のおしどり夫婦なわけだし。きみだって、女性同士の集まりで答えに困る時があるだろう?いつまでもこのままは不思議だよ」
「・・・ええ・・そうね・・確かに」
妙齢の女性が複数に集まれば、それなりに下世話な話題になる事は想像に難くない。
ただでさえ有名人の夫婦が、結婚三年目にしてまだ子宝に恵まれていないのだ。
あれこれと勘ぐって来るご婦人がいないとも限らない。
というのは建前で、本音は別のところにあったのだが、勿論綺麗に包み隠した。
「・・ベッドでは・・・どうなのぉ・・・って・・・訊かれたことがあるわ・・」
赤ワインのグラスを揺らしながら、リーシアがきゅうっと眉根を寄せる。
その手からワイングラスを抜き取って、テーブルに戻すと、レオは妻の身体を抱き寄せた。
「それで?なんて答えたの?」
仰のかせた額にキスを落として尋ねてみる。
婚約期間中に、タウンハウスで使用人からそれなりに知識は授けられているだろうが、どの程度この手の話題に耐性があるのか定かでない。
赤くなって黙り込めばそれなりに信憑性はあるだろうし、万に一つもおしどり夫婦がベッドを共にしていないと思われる心配はないはずだ。
「主人は・・・常に・・紳士的ですって」
「なるほど」
頷いて、ほどよくぬくまった頬を優しく撫でる。
「シア。次に同じ質問をされた時には、ベッドでもうんざりする程愛されてるって答えてやりなさい」
「・・・うんざり・・・する・・ほど」
もう殆ど吐息にしかなっていない声でリーシアが呟く。
「それじゃあ、早急に部屋を一つにしよう」
いいね、と念を押して閉じた瞼にキスを一つ。
頷いたリーシアから間もなく健やかな寝息が聞こえ始めて、レオは暫く彼女を腕に留めた後で、大人しく彼女をベッドまで運んでやった。
翌朝もぎりぎりまで寝かせてから、控え目に私室のドアをノックして、大義名分を手に入れた後で堂々と彼女のもとへ歩み寄った。
昨夜も飽きるまで見た寝顔を数分間眺めた後で、そろそろ起きないと間に合わないよ、とリーシアを起こした。
目を開けた瞬間、間近に迫る夫の顔を見たリーシアは、悲鳴を上げて上掛けに潜り込んで、そこが自分のベッドだと理解してから、もう一度レオを睨んだ。
二人の関係が変わってから、レオはリーシアを起こすことが習慣になった。
寝起きを見られたくないリーシアは、頑なに夫の入室を拒み、起こすときは必ずノックで、と命じていた。
が、非常事態なのだから仕方ない。
数度繰り返したこのやり取りもそろそろ使い古されてきたので、もう少し二人の関係を進めておきたかった。
なんといっても二人は愛し合う夫婦なのだから。
「昨夜の寝顔も可愛かったよ」
「余計なことを言わないで!!!」
リーシアの悲鳴が車内に響く。
「余計な事じゃない。俺にとっては重要なことだよ」
「お芝居どころじゃなくなるからやめて!こんな顔じゃ車から降りられないわ」
「それなら暫く駐車場で時間を潰そうか?そのうち記者に囲まれるだろうけど」
俺はどっちでもいいよ、と付け加えておく。
「ところで、昨夜寝る前にした話を覚えてる?」
「え!?・・・ええ・・まあ」
「忘れてないならそれでいいよ」
自宅に戻った頃には、すっかり部屋の模様替えは終わっているだろうから、とレオは心の中で付け加えた。
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