第14話 仮面夫婦の妻への質問

「マーカスに頼んであった封筒は、ちゃんと渡しておいたから」


「ああ・・ありがとう・・助かったわ」


「報告書、見たよ。いつもあんなに細かく内容を纏めてくれていたんだな」


「何が必要な情報か分からないから、覚えて戻った事をそのまま書くようにしていたのよ」


「きみの努力には本当に頭が下がるよ」


「インツォリア夫人には必要な事だわ」


それじゃあ、そろそろ、と自室に戻ろうとすれば、ソファの隣から指が伸びて来る。


お茶のお代わりを入れてくれる?来週出かけるパーティーのコーディネートの打ち合わせをしよう、と次々に言われてしまい、結局ソファに舞い戻る事三回。


普段は斜め前の一人掛けのソファに腰かけるレオが、なぜか今日に限ってリーシアの隣に座った時点で、逃げる算段を早々に付けておくべきだった。


どうして自分の夫から必死に逃げなくてはならないのか。


疑問は浮かぶけれど、この状況はリーシアに戸惑いしか抱かせない。


「インツォリア夫人じゃないきみに、訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」


解ける位の力加減で指先を握られて、リーシアは身構える。


外向きの妻じゃない自分が差し出せる質問が出て来るとはどうしても思えない。


思い切り顔を引き攣らせて、レオを見つめ返せば、ひょいと顔を近づけた彼が、耳たぶの上にキスをした。


「ひゃっ」


突然の出来事に思わず短い悲鳴が上がる。


ソファの端まで反射的に逃げたけれど、離れた距離は僅か数センチ程度だった。


今欲しいものは何かと尋ねられたら、世界一大きなソファと答えてしまいそうだ。


「きみの部屋に封筒を取りに行った時に、本棚を見たんだ」


「本棚・・・ああ・・そう」


もっととんでもない質問が振られるかと思ったが、本に関する話題ならどうにか切り抜けられそうだ。


ほっと息を吐いたリーシアとの僅か数センチの距離を詰めながら、レオが声を潜める。


「美術や歴史、福祉関係の本が沢山あったね。どれも俺達が出かける先々で必要になる知識ばかりだ」


「招かれる度に、何も知りません予備知識もありませんとは言えないでしょう?」


「屋敷に来た時にはレシピ本にしか興味を示さなかったのにね」


「あの時は・・・こうなる事を想定してなかったのよ」


「きみにこれ以上の負担は掛けたくないよ。したくない勉強は全て止めて構わない」


「好きになれるものもあったわ・・・じゃないとこんなに続けられない」


「そこには俺の事も含まれてる・・・?」


「・・・」


綺麗に紛れ込んできた質問に、吐く息そのまま頷きそうになって留まった。


夫としては間違いなく尊敬しているし、信頼もしている。


エレーナの前で、彼に愛されていないと嘆いたのはほかでもない自分だ。


けれど、いざ自分が愛を囁かれる立場になると、物凄く反応に困る。


これが、外向きの妻の仮面をかぶっている時なら、勿論よと笑えるのに。


視線を彷徨わせるリーシアの横髪を救い取って、レオが小さく笑った。


「ごめん。意地悪な質問だったな」


耳朶を優しくなぞられて、ぞわぞわと心許ない感覚が背筋を這い上がって来る。


するすると毛先までを撫で下ろして、また耳たぶの上の髪を掬われる。


これまでの公の場でのスキンシップで、彼の指先に馴染んでしまったリーシアには、その手を振り払うという選択肢が存在しない。


「本棚にあった恋愛に関する本」


秘密を打ち明けるような声音で囁かれた言葉に、リーシアは飛び上がらんばかりに驚いた。


「見たの!?」


僅かに腰を浮かせた拍子に、レオの指先から長い髪が逃げる。


「あれを使って誰を誘惑するつもりだったの?」


「・・・は?」


聞こえて来た斜め上の問いかけに、リーシアは目を瞬かせた。


「俺は一度も奥方からのラブレターを貰ったことが無い。マーカスに思いを寄せているのかと思って、報告書を片っ端から読み漁ったけれど、それらしい一文は見当たらない。それなら、きみは誰に思いを寄せてるの?・・・まだ、スティーブンが忘れられない?」


覗き込むように告げられた義兄の名前に、リーシアは思わず息を止めて真顔になった。


レオが、エレーナだと思い込んで自分に縁談を持ち込んだことは顔合わせの日に分かったが、リーシアとスティーブンとの接点については、彼は何も知らない筈だった。


「結婚前に、偶然きみの日記を見てしまったんだ。すぐに兄の事だと分かったよ。俺もエレーナと思い込んできみに求婚した手前、何も言うつもりは無かった。咎めるつもりはないんだ、ただ、確かめておきたくて」


顔を顰めるレオの苦り切った表情は、初めて見るものだった。


「私がスティーブンの事を思いながら、これだけあなたに献身的で居続けられると思うの?」


リーシアは自分がそれほど器用だとは思っていない。


「・・・思わない・・・というか、思いたくない」


首を振って懇願するように、レオが囁く。


「あの人はもう姉の夫で、私の家族よ・・そりゃあ、パーティーで初めて会った時にはときめいたわ。あんな穏やかで優しい男の人に会ったことが無かったもの。家とお店の往復でその他に何も入り込む隙間が無い位余裕が無かった私には、あの一瞬が物凄く特別に思えたの。だけど昔の話よ。私はあなたの妻であることに誇りを持ってる。ほかの誰かの妻になるつもりは無いわ・・あなたが、私を必要としてくれる限りは」


「きみを手放すつもりは無いよ。じゃあ、もう未練はないね?」


「ある訳が無いでしょう・・?それより、あなたこそ・・・エレーナのことはもういいの?」


「彼女は兄の妻、それだけだよ。俺にはもう最愛の妻がいるだろう」


「じゃあどうして、子爵邸に行くのを嫌がるの?」


「きみを行かせたくないんだ。兄に会えば、いつか気持ちが甦る事があるかもしれない」


「・・・エレーナに・・・会うのが気まずいわけじゃなかったのね・・」


「そんな風に思ってたのか」


眩しいものを見つめるように、スティーブンとエレーナが立つ柔らかな日差しが降り注ぐ庭を眺める彼の表情は、間違いなく恋に落ちた人のそれで。


「そりゃあ・・・思うわ・・・だって、顔合わせの日のあなたの顔は・・っ」


言葉尻を掬うように、唇を塞がれる。


驚きで目を瞑る暇もなかった。


ぱちぱちと瞬きを繰り返すリーシアの驚いた表情に目を細めて、レオが顎に指を引っ掻けてもう一度キスをする。


今度は軽く啄んで、両頬を包まれる感触の後で、キスが深くなった。


柔らかく食んで、上唇をなぞった後、窺うように唇の隙間を舐められる。


ぞくぞくと腰の奥が戦慄いて、上手く息が出来ない。


溺れるような気持ちで、唇を開けば、肉厚な舌が隙間から入り込んできた。


「んぅ・・・っ」


鼻から抜ける聞いたことの無い甘ったるい声に、身体が震える。


動揺して動けないリーシアの口内を悠々と一巡りしたレオは、舌裏を擦り上げた。


じんと痺れる快感が走って、じっとしていられなくなる。


身動ぎしたら、僅かに唇を離したレオが吐息で笑った。


「よく見て、いま俺が恋焦がれているのはきみだよ?」


眩しいばかりの笑顔で囁かれて、染まっていた頬がさらに熱を帯びて来る。


「・・・ぁ」


何も言えずに俯くと、また唇が重なった。


今度は舌先を甘く吸われて、堪え切れずにスーツの胸にしがみつく。


「答えて。あの恋愛指南書は、何のために買ったの?」


軽く上唇を啄んで、今度は赤くなった頬にキスを落としたレオが尋ねる。


答えようとした矢先に、耳たぶを舐められて、思い浮かべていた単語が飛んだ。


「・・・ゃ・・っ・・・れ・・・んあい・・」


「うん?なあに?」


ずるずるとソファの背面を滑り落ちて行くリーシアの身体を抱き寄せて、レオが膝の上に抱き上げる。


宥めるように背中を撫でた手が、震える指先を絡めとった。


こめかみにキスをして、額の産毛を唇で辿った後、寄せた眉根にもキスが落ちる。


「・・・恋愛・・相談を・・・されるのよ・・っ・・私たちが・・おしどり夫婦だから!・・どうやったら、素敵な・・恋が・・出来るのか・・って・・」


口にすればするほど情けなくなってくる。


「分からないから・・・本で学んだの・・だって、私、あなたと・・恋の駆け引きなんてした事ないもの」


息も絶え絶えになりながら、何とか答えを紡ぐと、リーシアの後ろ頭を引き寄せて、額に唇を押し当てたまま、暫く黙り込んだ後でレオが言った。


「俺たちは夫婦だけど、恋ならいまからでも出来るよ」


だから、安心していい、と自信たっぷりに言われて、リーシアは陶然としたまま曖昧に頷いた。

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