第17話 おしどり夫婦の寝不足な夜

「選択に迷うことがあれば、相手に委ねてみるのも一つの方法です。男性は、頼られる事で自尊心が満たされ、同時に保護欲も生まれます。その際、最も効果的な方法は、女性が下から見上げて、上目遣いになる事・・・」


広いベッドの真ん中で、枕をクッション代わりにしながら、リーシアを腕の中に抱き寄せて開いた恋愛指南書を一緒に覗き込む。


彼女の耳元で書かれている文章をつらつらと読み上げると、分かりやすく身を捩ってリーシアが俯いた。


素直な反応が堪らなく可愛い。


耳たぶにキスをして、唇で髪と一緒に耳の後ろを擽る。


昨夜は早々に身体を強張らせてしまったけれど、少しは慣れて来たのだろう。


居心地悪げに肩を竦めて見せたけれど、非難の声は上がらなかった。


万一に備えて、上手く言いくるめる為の台詞も用意してある。


同じベッドで眠っておきながら、全くスキンシップが無い夫婦の方が可笑しいのだから。


「これはきみが無意識のうちに俺にしている事だね。読んで勉強した?」


公の場に二人で出かければ、レオは腕を差し出してリーシアをエスコートするのが常だ。


斜め下から時折伺うような目線を向けられると、ついその腰を攫いたくなる。


二人の関係が進展した今ならば、迷わずそうするだろうが、仮面夫婦だった頃は、どこまでのスキンシップが許されるか分からずに、触れたくなると髪にキスをして誤魔化していた。


その度に、リーシアは一瞬だけレオに視線を向けて、すぐに口角を持ち上げる。


恐らく今同じことをしたら、真っ赤になって俯くだろう。


「そ、そんなに読み込んだ訳じゃないわ」


「そうなのか。なら、きみには才能があるよ」


「なんの・・?」


胸に手を当ててみても思い当たる節がないらしく、そろりとこちらを振り返って来たリーシアの唇を素早く奪う。


湯上りの温かいそれは、柔らかくて一度で離すのは死ぬほど惜しい。


二度軽く啄んでから、キスを解く。


「俺の心を射止める才能」


「・・・っな・・」


真顔になって口をぱくぱくさせるリーシアの頬にキスして、レオは頁を捲る。


「他の男にはしないようにね。マーカスには特に」


「・・マーカスには恋人がいるでしょう」


「結婚している訳じゃないだろう。油断は出来ないよ」


「あなたの右腕よ・・?」


「俺の奥方はどこに行っても大人気だからね。いつだって心配が絶えない」


「・・・そういう私は好きではないの?旦那様」


珍しく強気に応戦して来たから、目を細めて言ってやる。


「どんなきみも愛してるよ」


「・・・っ」


「喜んではくれないのかな?奥方」


一緒にベッドで休むようになって三週間。


リーシアは少しずつ二人の距離感に慣れて来たようだった。


初日の夜は、寝酒を用意してやらないといけない位目が冴えてしまったリーシアがうつらうつらとまどろみ始めるまで、辛抱強く付き合った。


恋の手ほどきに、女性に人気の恋愛小説ではなく、恋愛指南書を選ぶところが彼女らしい。


理由を尋ねれば、複数の質問に答える為の、バリエーションが必要だったそうだ。


真面目な彼女の事だから、隅から隅まで読みつくして、知らぬ間にこれらの技法を披露しているのだろう。


黙り込んだリーシアの顎に指を引っ掻けて、こちらを振り向かせる。


ベッドサイドテーブルの間接照明のほのかな明かりの下で、瞳を潤ませて答えに詰まる妻の表情はこの上なく魅力的だ。


ベッドに入ってからするキスは、優しいキスだけに留めてある。


リーシアの気持ちが追い付くより先に、ベッドルームを一つにしてしまった罪滅ぼしと、自分への自戒の為だ。


この先は慎重に、もう少し彼女がこの関係に馴染むまで待つつもりでいた。


その為にも、雰囲気に流されて迂闊に手を出すわけにはいかない。


レオにとっても、結婚初夜は苦い記憶として刻まれていた。


あの一言が、仮面夫婦を産むきっかけになったからだ。


今度は絶対に間違えるわけにはいかない。


そろりと額をぶつけて微笑むと、リーシアが震える声で覚えたての愛の言葉を囁く。


記者の囲み取材の中でも、一度として口にしたことの無い台詞だ。


『経営者としての責任を立派に果たし、社会貢献に努める主人を誰より誇りに思い、尊敬しています』


夫としてのレオに対するリーシアの評価は概ねこんな感じだ。


二人の間にはそもそも愛が無かったのだから、これだけでも十分過ぎる位の賛辞である。


リーシアは、仕事に対するレオの姿勢を見て、妻の立場を理解し、必要なサポートを行うようになった。


外向きの夫婦の顔を互いに守る事で、その関係を維持して来たのだ。


けれど、これからは違う。


リーシアの事を妻として愛しているし、これからはもっと甘やかしたいし、我儘も聞いてやりたい。


堅実な彼女の事だから、欲しいものを尋ねても何もないと言うだろう。


もしくは、真剣に悩んで、新たな福祉事業の立ち上げを提案してくる可能性だってある。


彼女が胸の内に抱える想いの半分でも理解出来るようになるまでは、これ以上手は出せない。


踏み込んでは留まって、少し下がって、また踏み込む。


手探りで縮めていく夫婦関係は、まるでもう一度を婚約期間をやり直しているようだ。


「・・・愛してるわ。レオ」


妻の唇から紡がれるその一言で、心はあっという間に満たされて、苦しくなる。


薄いネグリジェの生地を意識しないように、微妙に加減をして抱きしめた首筋に頬を寄せた。


胸にしがみついて来た指先が震えている事が分かって、もう少しだけ力を緩める。


このあたりの加減がどうにも難しい。


強引にならないように、けれどこれ以上距離が開かないように。


穏やかで優しい夫をこんなに意識したのは初めてだ。


リーシアが、最初にスティーブンに惹かれたのは、彼の優しげな容姿と穏やかな雰囲気のせい。


だから、間違っても妻を怖がらせたり、怯えさせるようなことは出来ない。


すっかり妻の心から、兄の面影は消えていると分かっていても、やっぱり釈然としない気持ちは残ってしまうのだ。


だから猶更、レオはリーシアに優しく接しようと努める。


この世界で一番彼女を愛しているのは、自分だと信じて貰うために。


首筋の薄い皮膚にキスをして、そろりと腕を解いた。


「そろそろおやすみを言おうか?」


「今日もあなたが先に眠って。私はまだ寝れそうにないから」


「・・・分かったよ。寂しくなったら遠慮せずに起こして」


抱き寄せた身体をベッドへと横たえて、隣に潜り込み上掛けを引き寄せる。


こうして眠った振りをする事にも随分と慣れた。


「そんなことしないわ。朝早いんだから。おやすみなさい」


レオの睡眠時間を削っていると知れば、リーシアがやっぱり寝室は別にと言い出しかねないので、彼女が眠るまでの小一時間、ひたすらにレオは寝たふりをし続けるのだ。


「おやすみ」


きっとの明日の朝も、幸せな欠伸が止まらないのだろうなと思いながら。

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