第9話 仮面夫婦の妻の秘密

いつもより二時間以上早い帰宅はひと月ぶりだ。


普段は、リーシアがベッドに入る頃合いを見て自宅に戻るようにしていた。


一度、レオが通常より早く帰宅したら、あからさまに驚いた顔をしたリーシアが、慌てて私室に飛び込んでしまって以来、ずっと深夜帰宅を続けている。


おかげで仕事は捗るし、マーカスに未決裁書類を突きつけられる回数も減った。


バートンとどれだけ深酒を楽しんでも怒られる心配も無い。


早くに結婚して、すでに三児の父親であるバートンは、人目を気にするレオをしょっちゅう母親の経営するバーに誘ってくれるのだ。


すぐ隣が自宅という事もあって、バートンはどれだけ飲んでも問題ないし、奥の個室はいつも二人の為に開けてあるので、密談も交わす事が出来る。


さすがに三日連続でバートンが酔いつぶれた時には、妻が店に乗り込んできてひと悶着あったが、レオにとっては、酔いつぶれて叱ってくれる妻の存在が心底羨ましかった。


リーシアは、レオがどれだけ飲んでも、酔いつぶれても、たとえ帰宅しなくても、恐らく心配しないだろう。


夫婦同伴のイベントに参加するならば眉間に皺位寄せたかもしれないが、それ以上の感情は抱かないに違いない。


レオの方も、翌日リーシアと一緒に出掛ける前日は絶対に深酒をしないようにしていた。


万一二日酔いで、リーシアに負担を掛ける事になると困るからだ。


おしどり夫婦を始めた以上、揃って出かける時にはそれ相応の義務が発生する。


支え合うというよりは、お互いの足を引っ張らないために。


寝ているリーシアを起こさないように、いつもは慎重になる足取りもこの日ばかりは軽快だ。


彼女の寝室は今日から二日間もぬけの殻なので。


今頃インツォリア子爵のマナーハウスで、兄一家と仲良く家族団欒を過ごしているだろう妻に一瞬だけ想いを馳せる。


と、帰り際にマーカスから依頼された仕事を思い出した。


少し迷ってから、荷物を置いてそのままの足で、リーシアの私室のドアを開ける。


結婚してから、彼女の私室には一度も足を踏み入れたことが無い。


リーシアは、夫婦同伴で出かける際のコーディネートを決める為に、レオの私室のウォークインクローゼットに出入りをしていたが、そういった理由がないレオにとっては、彼女の私室は禁域に等しかった。


室内は荷物を運び込む際に立ち会った時の記憶から、さほど変わっていないように見えた。


花柄のベッドカバーが掛けられたシングルベッドに、小さなドレッサー。


結婚してから、お礼状や挨拶状を書く機会が増えて、追加で購入したライティングデスク。


クローゼットの中にあるのは、外向きの妻用の衣装ばかりだ。


そう言えば、彼女がどんな服装へ部屋で寛いでいるのかすらレオは知らない。


ぐるりと部屋を見回して、なんだかリーシアの私生活を覗き見した気分になって慌てて目的のライティングデスクに近づいた。


『奥様の部屋の机の上に、封筒があるはずですから、明日の朝それを会社まで持ってきてください』


どうしてマーカスから依頼をされるのかと首を傾げれば。


『奥様から列車に乗る直前に僕宛に電話があったんですよ』


レオは、リーシアからの電話を貰った事なんて無い。


多忙な夫よりも先に秘書に連絡をしてくる妻の気遣いに感謝するべきなのか、拗ねて良いのか分からない。


『なんでお前に・・』


思わずぼやいたら、マーカスから、それは奥様に訊いてください、と返された。


訊けるものならとっくの昔に訊いている。


尋ねたいことはたくさんあるのだ。


自分に対する要望でも構わない。


彼女が何を望み、何を願っているのか、レオにはさっぱりわからないから。


早速任務を遂行すべくライティングデスクの上を確かめる。


すぐに茶色い封筒が見つかった。


綺麗に整理されたデスクの上には、チューリップ型のランプと、それしか置かれていなかった。


手紙、というよりは書類、と呼んだ方が良さそうな厚みのそれを取り上げる。


リーシアは、サロンや講演会に招かれると、そこで知り合った女性達の情報を書き留めて、綺麗に纏めたものをマーカスに届けるようにしていた。


それを受け取ったマーカスが、取引先の関係者と照らし合わせてさらに情報を付け加えてリーシアに返す。


次回のサロンや講演会までに、それらの情報を頭に入れて、社交に役立てるのが結婚してからのリーシアの日課となっていた。


マーカスから報告書のやり取りをしている事は聞いていたが、どんな内容なのか確かめた事は無かった。


全てマーカスに一任していたせいもあるが、それ以上に、レオが依頼した妻としての役割を必死に果たそうとするリーシアの姿を見て、罪悪感を覚えたくなかったからだ。


逡巡した後、封筒から書類を取り出して広げると、そこにはリーシアが出かけた日時と場所、集まっていたメンバーの名前が記載されていた。


次のページには、それぞれの外見の特徴や話し癖、聞き出した話題について綺麗に書き連ねてある。


夫がつい気を抜いて漏れ零した情報が、取引に役立つこともあるのだと良く分かっているのだろう、報告は子細に綴られていた。


取引先との商談の前に、マーカスから告げられる相手のプライベートな情報の多くは、こうしてリーシアが知らせてくれたことが殆どなのだ。


レオが当初彼女に望んだ外向きの妻というのは、夫婦同伴パーティーに一緒に参加して、適度に愛想笑いを浮かべてくれるだけの存在だ。


自分の事業の邪魔にさえならなければそれでよいとさえ思っていたのに。


やり切れない思いで書類を元通り封筒にしまって、部屋を出ようとした矢先、壁際の本棚に目が行った。


結婚してすぐに美術館のリニューアルオープンに招待された際に、リーシアが展示されている作家の過去作品をほぼ全て網羅していたことに驚いた。


近代美術、古典美術に関する参考文献や、彫刻家に関する書籍、歴史、福祉や教育に関する参考書がずらりと並んでいる。


これらを読み込んで、知識を詰め込んでいたのだろう。


彼女がいつも夫と呼ぶ参考文献を相手に。


本棚を見れば、その人となりが分かるとはよく言ったもので、リーシアの本棚は真面目な彼女そのものを表すようだった。


けれど、少しも彼女の内面に触れられるものがない。


その本棚の片隅に、少し想定の異なる本が並んでいる事に気づいた。


リーシアの趣味であるお菓子作りのレシピ本から思い、手に取る。


「・・・え」


見れば、表紙には【最新版恋愛指南書】と大きく書かれてある。


眉根を寄せて、本棚をもう一度確かめると、すぐ隣にも同じような装丁の本が並べてあった。


【恋の駆け引き百通り】【あの人に送る特別なラブレター】【意中の彼へのアプローチ集】見れば見る程眉根が寄って来る内容ばかりである。


これらを使って一体誰と恋の駆け引きを楽しもうというのか。


結婚してから他の女性に食指が動かなくなったレオは、一度も浮気をしたことは無い。


一度だけ堪えかねて地方都市の花街に出掛けた事はあるが、無意識に指名しようとした女性の容姿がリーシアにそっくりで慌てて逃げ帰った。


レオがリーシアに依頼したことは、外向きの妻を装う事だけなので、浮気については言及していない。


が、真面目な彼女が別の男と不倫の恋に落ちるとは到底考えられない。


万一誰か思う相手が出来たとしても、心に秘めたままにしておくだろう。


彼女がスティーブン以外に、思いを寄せる相手が出来たのだとしたら、それは一体・・・


「・・・マーカスか?」


リーシアが一番信頼しているのは、レオではなくマーカスだ。


レオにはしてこない日常の雑談も、マーカスには気軽に話せるようだし、頻繁に報告書のやり取りもしている。


さっきの報告書の中に、恋文が紛れ込んでいたらどうしようと不安になって、慌ててもう一度中身を確かめるが、書かれてある文面は、どこまでもただの報告だった。


一つの疑問が消えて、また別の疑問が浮かぶ。


ただの興味でこれだけ何冊も同じような分野の本を買い揃えるわけがない。


だったら、一体誰に・・?


妻が不在の妻の私室で、レオは深々と溜息を吐いて天井を仰いだ。






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