第8話 仮面夫婦の夫の嫉妬
「ドモード商会に見積もりの再提出を依頼してくれ、ルビコーネ工房との競合だと伝えればいくらか値段が下がるだろう」
「承知しました」
「シラーズ化粧品のラベルの試作チェックはどうする?あそこの女社長はお前にご執心だから、顔を出した方がいいぞ」
「時間が取れたら顔を出すよ。サインをする直前に行くからそれまでブルードと二人で粘ってくれ。あいつもうちの女子社員に人気だろ」
「いやでも顔の系統が違い過ぎるだろ・・あ・・・」
予定より早く打ち合わせを終えて廊下に出た所で、バートンが何かに気づいて足を止めた。
彼が巨体を揺らして大きな手を上げる。
マーカスとレオがそれに続いて廊下の先を見止めた。
「やあ、奥方!」
バートンの大声に、廊下の先でリーシアがこちらを振り返る。
会社に顔を出すときはいつも紺やグレーの地味な装いを選ぶ彼女だ。
こうして廊下に立っていると、ただの社員に混ざってしまいそうだ。
意図的に彼女がそうしている事を理解しているが、気遣いに感謝するよりも物足りなさを感じてしまうのは、夫として正解なのだろうか。
濃紺の踝までのワイドパンツに、ライトグレーのカットソーを合わせたリーシアは予想通りの笑顔でバートンを呼んだ。
手にはジャケットを持っているので、この後出掛けるのだろう。
「バートン副社長!今日もお元気そうで何よりですわ。マーカスも」
社交向けより僅かに気安い笑みは、社内の人間に対する親しみを表している。
いくら仮面夫婦とはいえ、結婚生活三年目になれば、彼女がいくつかの笑顔を使い分けている事は分かるのだ。
大柄なバートンの後ろに隠れてしまう社長秘書を覗き込んでわざわざ視線を合わせるリーシアに、マーカスが満面の笑みを浮かべる。
全力で冷たい視線を送ってやったが、それもものの数秒で終わった。
リーシアがレオを呼んだからだ。
「お仕事お疲れ様です、旦那様」
「よく来てくれたね。また差し入れかい?嬉しいけど、こんなに大量に作ったらきみの腕が疲れてしまわないか心配になるな」
リーシアが手にしている大きな紙袋を覗き込んで、30個は軽くあるだろうマフィンに眉を上げる。
妻の会社訪問が始まってからかれこれ二年以上になるが、その間一度も事前予告をして貰えたことが無い。
レオのスケジュールは、定期報告会と言う名の食事会と、秘書であるマーカスを介してリーシアは把握している筈だ。
彼女自身のスケジュールと照らし合わせて、時間が取れる日時に訪問してくれているのだろうが、せめて一言声を掛けてくれればいいのにと思う。
可能な限り予定をずらして、社内で待つ事が出来るからだ。
恐らくリーシアはそうされたくなくて、突撃訪問を繰り返すのだろう。
というか、一言声を掛けるもなにも、そもそも定期報告会以外で、二人が雑談を交わしたことは一度も無かった。
「我が家のオーブンは最新式ですからね、使わないと勿体ないでしょう」
リーシアと暮らし始めるまで自宅のオーブンの存在すら知らなかったレオである。
タウンハウスに長く勤めてくれていた家政婦のマーサに、通いでアパルトマンに来て欲しいと依頼したのは起業した年の初めのこと。
食事に関しては外で済ませる事の方が多かったので、未だにあのアパルトマンで誰かの手料理を食べたことは一度も無い。
休日も溜まった決裁を捌きに仕事に向かうレオと、慈善活動に精を出すリーシアにとって、新居のキッチンは二人で使うものではなかった。
「バートン副社長、前回好評だったチョコチップマフィン、お先にどうぞ。マーカスは、プレーンがいいかしら?」
「いやあ、いつも悪いなぁ!」
「ありがとうございます。奥様」
「マーカス。最新の社員情報をありがとう。とても役に立ったわ」
「お役に立ててなによりです。前回提出していただいた医療機関への支援計画の草稿もとても参考になりました」
「あれは婦人会で出た意見を纏めただけだから、参加者のアイデアが良かったのね。それと・・後で少し時間を貰えるかしら?」
「はい、応接にご案内します」
今日の会社訪問の目的は、本当はこっちだったのだろうか。
社長秘書のマーカスとリーシアは、レオ以上にこまめに連絡を取り合っている。
レオのスケジュールや、会社情報を共有するためだ。
別段おかしな事でもないし、レオとリーシアは必要最低限の会話しかしないので、どうしても不足分を補う必要があるのだ。
それにしては、やけにやり取りする報告書が多いような気がする。
訝しむレオの前で、リーシアが軽く首を振った。
「ああ、いいのよ。下の階に残りのマフィンを配りに行ったら自分で向かうわ。モンテッサのお嬢さんがおめでたなんでしょう?お祝いを言いに行ったら長く捕まると思うから。あの方お喋りが大好きなのよね」
「僕もしょっちゅう捕まってはご主人の愚痴を聞かされてますよ」
モンテッサというのは、起業当時から勤めてくれているベテランのタイピストだ。
新人の教育担当でもあり、若い女子社員にとっては母親のような存在である。
が、レオは彼女と立ち話をした事が殆どない。
「私はいつも羨ましがられる立場よ。あ、そうだ、お嬢さんの旦那さんの話は聞いた?」
「聞きましたよー!酒屋の帰りに溝に嵌まって抜け出せなくなった話!」
「あの話は本当に何度聞いても笑っちゃうわ。疲れた時に思い出すようにしてるのよ」
「奇遇ですね!僕もですよ」
見た事も無い砕けた笑顔で思い出し笑いをするリーシアと、楽し気なマーカスを横目にぼんやりと突っ立っていると、勢いよく脇腹を抉られた。
思わず前のめりになって、暴行犯を睨みつける。
「何するんだ・・っ」
「拗ねるな拗ねるな。お前は家に帰れば好きなだけリーシアを独り占め出来んだろ?」
「拗ねてない」
憮然と言い返して、内心で毒づく。
独り占めどころか、自宅に戻れば二人は顔を合わせる事すらない赤の他人に成り下がるのだ。
むしろ、リーシアと一緒に過ごそうと思ったら、どこかに彼女を連れ出す必要がある。
そしてそうなると必ずリーシアは外向きの妻の顔になる。
どれだけ熱心に彼女を口説いても、それはすべて夫から妻への美辞麗句として受け取られてしまうのだ。
いざ外で二人きりになっても、即座にリーシアは妻の仮面を投げ捨てて、付け入る隙なんてものはありはしない。
必要な情報だけを交換して、その後はまたおしどり夫婦の仮面をかぶるのだ。
レオは、数える程しかリーシアの本当の笑顔を見たことが無い。
だからこそ分かるのだ、目の前でマーカスと笑い合うリーシアの笑顔は、紛れもなく本物だと。
ひとしきり笑いあったリーシアが、改めて夫を呼んだ。
「旦那様の分は、ちゃんとお家にありますからね。皆さんの分を取らないように」
「あ・・ああ、帰って食べるのを楽しみにしてるよ」
これは真っ赤な嘘だ。
甘いものが苦手なレオに、リーシアはケーキを贈った事などない。
円満夫婦の夫が、妻のお手製ケーキに手を付けないのは外聞が悪いから、建前でそういうことにしてあるのだ。
「私はマーカスと打ち合わせの後、出かけます。評議会の皆さんとお食事をしてから夕方には戻ると思うわ」
「分かったよ。誰かに送らせようか?」
「ここまでもメトロで来たのよ?自分で行けるわ心配性ね。それじゃあ、また夜に」
クスクスと鈴のような軽やかな笑い声を響かせて、リーシアが階段を下りていく。
その後ろ姿をぼんやりと眺めていたら、バートンが今度は肩をバシバシ叩いて来た。
軍隊出身かと疑いたくなるほどの腕力に、思わず涙目になる。
「あんまり追っかけ回してやるなよ。奥方にだって自由時間は必要だろ?」
「煩い」
こうして顔を合わせた後は、そのすべてが自由時間のようなものなのだ。
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