第10話 仮面夫婦の妻の迷い

半年ぶりに訪れるトレヴェントは、初夏に差し掛かる今も柔らかな春の気温を保っていた。


カンティーナタウンの北部に位置する為、夏の避暑地として人気のある観光地でもある。


日に日に日差しがきつくなるカンティーナタウンとは違い、帽子やパラソルなしでも十分散歩が出来る。


駅まで迎えに来てくれていたのは、インツォリア家の使用人ではなく、なんとスティーブンだった。


穏やかな笑顔に、父親らしい逞しさがほんの少し上乗せされた表情は、幸せそのものだ。


領地を回る事が多い彼は、こんな車で悪いね、と少しも悪びれた素振りを見せずに三輪トラックの助手席にリーシアをエスコートした。


算盤を弾く事は家令に一任して、自身は領民との交流を深める事に時間を費やしているらしい。


エレーナとの電話でも、しょっちゅう領民が名産品のワインを片手に屋敷を訪ねて来ては大宴会になると聞いていた。


領民とは一線を画して付き合う領主も多い中、気さくなスティーブンは、誰が屋敷を訪ねて来ても断ることが無いので、いつの間にか人が居着いてしまうらしい。


一人目の妊娠中に始めたエレーナの手芸サロンは、領民の妻や若い娘たちに人気で、時々カンティーナタウンの教会のバザーにも出品してくれていた。


「シア!!」


子爵家に到着するなり、広い屋敷のエントランスから飛び出して来た甥っ子を、腕を広げて抱きとめる。


半年前に会った時より随分重みが増していた。


「ヴィルト!久しぶりね!元気だった?」


「あーそーぼー」


半年前より随分と言葉をはっきりと紡げるようになっていた。


子供の成長は本当に早い。


ぐいぐい手を引いて庭に連れ出そうとするヴィルトの頭を優しく撫でて、後でねと微笑む。


「お土産を沢山買ってきたのよ。後で一緒に見てみようね。お母さまは?」


「かーさま」


エレーナはどこかと問いかければ、植え込みの奥にある窓ガラスを指さした。


見ると、ソファに腰かけてこちらに手を振るエレーナの姿が見えた。




★★★★★★



「それで、体調はどうなの?前の時みたいに一日中ベッドで横になっているの?」


何を口にしても吐き出してしまって、水分以外は胃に入れられないと涙を浮かべて苦しむエレーナに付き添ったのは結婚一年目の事だった。


「日によって体調はバラバラねー。でも、一人目の経験があるから、対処方法が分かる分やりやすいわ。ヴィルトはまだまだ手が掛かるし、侍女が居ても私のところに来たがるから」


「たった一人の母親だもの。当然よ。スティーブンは喜んだでしょう?」


「そろそろ二人目をっていう話をしてから、出来るまでに一年近くかかったわ。やっぱり年齢のせいもあるのかしらね」


「でもこうして二人目が出来たから良かったじゃない。インツォリア家は安泰ね」


「シアちゃん。産むなら早い方がいいわよ。体力がね、もう限界なの」


「・・・こればっかりはコウノトリのご機嫌次第だもの」


スティーブンが、身重のエレーナの為に応接を改装して設置した大きなソファは、横になっても十分な広さがあり、ヴィルトがお腹にいる頃、腰痛に悩まされてベッドで休むことが出来なかったエレーナの仮の寝所となっていた。


壁紙は温かみのあるピンクベージュで、生成りの柔らかなレースのカーテン越しに心地よい風が吹き込んで来る。


広い芝生の上に寝転がってじゃれあうスティーブンとヴィルトは、絵に描いたような仲の良い親子だ。


列車に乗る前に百貨店で購入した瓶詰の柑橘濃縮果汁を冷たい炭酸水で割りながら、リーシアは溶けていく氷をぼんやりと眺めた。


「旦那様とはうまく行ってる?」


「・・・行ってるわ!新聞記事に書かれてある通りよ。恙なく妻として過ごしているわ」


少し濃いめにしたものを、エレーナに、薄めに作ったものを自分の前に置く。


ヴィルトを妊娠中に試行錯誤した結果、エレーナが一番好んだ飲み物がこれだったのだ。


「シアちゃんの良い所は、どんな些細な事もちゃんと覚えている所ね。ジュースの濃さも、氷の量も。とっても美味しい」


一口飲んで、目を細めるエレーナは、あの頃のような女学生然とした可憐さは無いけれど、母親としての誇りと自信に満ちた横顔は、男爵令嬢だった頃よりもずっとずっと美しい。


尊いものを見つめている気持ちになって、同時に今の自分を確かめて、思わず唇を噛み締める。


人前に出る事が増えて、表情を取り繕う事を覚えて以来、こんな風にあからさまに顔をゆがめた事は無かった。


「お姉ちゃんは、新聞記事に書かれていない事が知りたいのよ」


「・・・」


「あなたたち夫婦が、二人きりの時にどんな会話をして、どんな食事をしてどんな風に笑い合っているかが知りたいの」


静かなエレーナの問いかけが、雨のように胸に染み込んでいく。


いつもの記者からの質問に答えるように、美味しい食事を食べに夫婦揃ってレストランに行ったこと、リーシアの好きな薔薇を見に植物園に出掛けたこと、次に見に行く予定の観劇の演目について意見が分かれて、レオが折れてくれたことを、いつも通り唇に乗せればいい。


けれど、それはどれも本当ではない。


記者の前でなら、どれだけだって上手に妻の仮面をかぶれる。


だってその方が有益だからだ。


リーシアの評価が上がれば、レオの評価も上がる。


その為の、外向きの妻なのだ。


エレーナがそっとリーシアの肩を撫でた。


労わるような、慰めるような、優しい触れ方をされるのは随分と久しぶりで、喉元までせり上がって来た嗚咽を堪える事が出来なかった。


「・・・話せることが・・・なにもないの」


「喧嘩でもした?私も、スティーブンには怒る事があるのよ。いつまでもヴィルトと遊んでなかなか寝かしつけてくれないから。翌朝おねしょの始末をしながら小言を言うのなんてしょっちゅうよ」


どこにでもいる家族の、当たり前のやり取り。


それすらも、レオとリーシアの間には存在しないのだ。


最初に拒絶された時から、外向きの妻として以外の顔で、彼に接する方法が分からなくなってしまった。


どこまでが役割に必要な情報か測りあぐねて、結局必要最低限の事だけを口にする日々を続けているうちに、それが日常の一部になっていた。


プライベートな話題を振って、リーシアの期待が裏切られることも怖かったし、何かの拍子に、エレーナと自分が比べられる事も怖かった。


彼が今もどれ位エレーナを慕っているのかは分からない。


マナーハウスに寄り付かない所を見ると、まだまだ割り切れない気持ちがあるのだろう。


だから猶更それ以上は近づけないのだ。


「違うの・・・喧嘩はね、一度もしたことが無いのよ」


「そうなの?シアちゃんは自分の意見をはっきりと口にする方だし、スティーブンから聞く限り、レオも同じような性格みたいだから、てっきり裏では口喧嘩が絶えないのかと思っていたわ」


「私、あの人のこと何にも知らないのよ。何が好きで、何が苦手かは知ってるけれど、彼が私を本当はどう思っているか、知らないの。知らないけれど、分かっている振りをして、インツォリア夫人を演じて来たのよ」


「どこに行くのも一緒のカンティーナタウン一番のおしどり夫婦でしょう?レオがあなたを愛していないわけがないじゃない」


「・・・そう思ってくれてありがとう。私の狙い通りだわ」


眦に浮かんだ涙を指で拭って鼻を啜れば、エレーナがきゅうっと眉根を寄せて呟いた。


「一体どういうことなの・・・」

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