第11話 仮面夫婦の夫の決意

「あー・・社長、社長!早く、早く来てください!」


取引先から会社に戻るなり、社長室から慌てて飛び出して来たマーカスが、ズレた眼鏡を押し上げながら手招きして来た。


見た目以上に中身が落ち着いている事が気に入って右腕に雇った秘書が、血相を抱えている。


まさか大口取引先が倒産でもしたのかと、慌てて社長室に飛び込めば。


「インツォリア子爵夫人からのお電話です!しかも滅茶苦茶怒ってます!」


机に伏せた受話器を指さして、マーカスが声を潜めて進言して来た。


結婚してからエレーナから会社のそれも社長室直通の電話に連絡が入った事は一度も無い。


リーシアとエレーナはこまめに手紙や電話で連絡を取り合っているが、兄の妻と密に交流する趣味は無かった。


最初のエレーナへのときめきはリーシアとの婚約期間中にすでに綺麗に無くなっている。


一昨日から身重の姉の様子を見るためにマナーハウスに滞在していたリーシアに何かあったのかと慌てて受話器を取れば。


「一体どういう事か説明して頂戴!」


挨拶抜きで詰られて、レオはマーカスに片手を振って席をはずせと指示を出した。


思い当たる節がありすぎるだけに、数分で通話が終わるとはどうしても思えなかったのだ。


電話機を引き寄せて、執務机に浅く腰かける。


久しぶりに聞いた彼女の声は、怒りに満ち溢れていた。


「どういう事、というのは・・・?ちなみに義姉君(あねぎみ)、俺の奥方はもう列車に・・」


「シアちゃんは泣いていたのよ!?」


「何かあったのか?体調を崩した?それとも・・」


昨日は顔を見ないまま会社に来てしまったから、彼女とまともに話したのは三日前の取引先とのディナーの席だ。


当然ながら体調不良の兆しは見られなかった。


「あなたは、あの子を愛しているから結婚したわけでは無いの?」


「・・・良縁に恵まれたことを幸運に思っているし、当然最善で最愛の妻だ」


「・・・だったらどうして、シアちゃんは愛されていないと言って泣くの?」


「・・・彼女は俺に愛されたがっていると?」


不本意な結婚で、割り切った夫婦生活を選んだのはリーシアも同じはずだ。


「あなたは馬鹿なの!?」


「なっ・・・」


「この三年間、あなたは私の妹のなにを見て来たの?夫を支える良妻であるあの子の内面に、少しでも触れようとした?」


「いや・・・それは・・」


そもそも始まりが違ったのだ。


内面に触れるより先に、結婚することが必然となってしまった彼女は、すぐにインツォリア夫人という仮面をかぶるようになった。


完璧な淑女は、夫の役割を全うするレオの前以外では、妻以外の顔を覗かせてはくれない。


何よりリーシアが、内面に触れて欲しいと思った相手は、自分ではなく兄のスティーブンだ。


歯噛みする思いで溜息を吐く。


「あなたが外向きの妻を必要としている理由は良く分かるわ。あの子はもう十分すぎる程良くやっている。そうでしょう?どこに行ってもおしどり夫婦として注目されて、今やカンティーナタウンの若い娘たちの憧れですらある。だけど、これ以上リーシアの心を置き去りにするのなら、私は姉として黙っていないわ。離婚しろとは言いません。でも、あの子の事は解放して頂戴。ヴィルトがシアちゃんを慕っているの、あの子さえ良ければ、この先ずっとこの屋敷で暮らして貰っても構わないと思っているわ。スティーブンにもお願いするつもりよ。その場合、何があってもあなたには金輪際会わせませんからね」


「ちょっと待ってくれ」


「三年よ!?私がスティーブンとヴィルトを設けて新しい人生を満喫している間じゅう、ずっとあの子は・・一人で・・私とリーシアはたった二人の姉妹なのよ!?あの子が辛い思いをするのは身を切られるよりも痛くて苦しいわ」


リーシアがどんな家庭を夢見て、どんな新婚生活に憧れて、この結婚に踏み切ったのか、尋ねた事などなかった。


自分では到底叶えてやれないと思ったからだ。


スティーブンと真逆の性格をしていると自負しているレオにとって、兄と比べられる事は何よりも屈辱だったから。


「あの子はあなたが好きなのよ!」


「・・・」


「だから、少しでも力になりたくて努力を重ねて来た。真面目なシアちゃんの事だから、それはもう勤勉に取り組んだことでしょうね。だからあなた達はおしどり夫婦と呼ばれるようになったのよ」


エレーナの言う通りだった。


リーシアは取材を受けても、一緒に出掛けても必ず夫であるレオを褒めるのだ。


頭に叩き込んだ知識は全て夫から、婦人会への差し入れは勿論のこと、添えられるカードの名前までレオの名前にしてある。


主人のおかげで幸せな毎日を送る事が出来ています、というのが彼女の決まり文句だった。


彼女の態度に答えるように、レオは妻に分かりやすく愛情を示すようになった。


最初はポーズで始めた演出が、いつしか定番になったのは、そんな時でもないとリーシアに触れる事が出来ないからだ。


献身的に夫を支える妻への感謝の言葉を考えていたのも最初だけ。


そのうち自然と言葉を紡げるようになった。


コウノトリ事件として後にまで語り継がれることになった囲み取材の時もそうだ。


心に浮かんだことをそのまま口にして、そしてそれは大衆に大いに受けた。


子供が出来ない事に関しては、全責任がレオにあるのだから、妻が誹謗中傷の餌食になる事だけは避けなくてはならないと、必死になって導いた答えだった。


彼女が外向きの妻として見せる笑顔が例え偽物であっても、どうしたって笑いかけられれば嬉しいし、いじらしく拗ねた表情を向けられると堪らない気持ちになる。


妻としては申し分ないリーシアを、手放すことなんて一度だって考えたことが無い。


エレーナが言う通り、彼女の中にいくらか自分に向けてくれる愛情があるのならば、それが例え家族愛であっても、構わない。


この歪なだけの夫婦生活を終わらせるきっかけになるのなら。


「あなたがあの子の本当の夫で居続けたいのなら、今度はあなたが努力して頂戴。そして、今度こそシアちゃんを幸せな妻にして」


「・・・分かった」


「本当にお願いよ!?私が早産になったら、間違いなくあなたのせいだわ、レオ!!!」


万一そんなことになれば、今度こそリーシアに愛想を尽かされかねない。


「それは困る。くれぐれも身体は大切にしてくれ、義姉君(あねぎみ)」


神妙に答えたレオの返事に、言質を取ったわよ!と捨て台詞を残して電話は切れた。





★★★★★★




「マーカス、力を貸してくれ」


「どうされました?死にそうな顔をされてますが」


「奥方を口説く事になった」


「・・・・」


「黙り込むな」


「まだ本気で口説いてなかったんですか!?あなた二人きりの家で何やってんですか!?」

 

社長室に呼びつけた秘書が頭を抱えて、この人ほんとに仕事馬鹿だとぶつぶつ呟き始める。


新婚初日に始業の二時間前から執務机に張り付くレオを見つけたマーカスは、二人の初夜が失敗に終わった事を悟った。


これまでレオが交際して来た女性達を知る優秀な秘書は、系統の違う妻に対しても同じような接し方で挑んで泣きを見たのだろうと踏んで、優しく上司を励ました。


ところが、翌日も、その翌日も、レオは誰より早く出社して精力的に仕事をこなしており、さらには休日出勤までするようになって、さすがに違和感を覚えたマーカスが、馴染みのバーに引き摺って行って、泥酔状態に追い込んで吐かせた。


レオはテーブルに突っ伏したまま、途切れ途切れに、兄に思いを寄せていた女性と結婚することになった事、そして最初は、自分も彼女の姉に一目惚れをしたことをポツリポツリと零した。


考え得る限り最悪の状態で始まった新婚生活に、マーカスは同情的な気持ちになって、これは早々に離婚の記事が飛び出すのではと覚悟を決めた。


ところが、マーカスの予想は見事に裏切られる。


リーシアは、レオの模範的な妻になろうと努力をし始めたのだ。


社員の家族構成や、これまでの経歴をマーカスから聞き出して、積極的に交流を深めていき、取引先の情報を伝えれば、社長夫人と接点のある知人を頼って食事会を企画する。


夫の支えになろうと懸命に努力する彼女の姿は、何処からどう見ても立派な妻だ。


そして、それが義務感だけで成り立つものではない事も、傍から見ていればすぐに分かる。


少なからずそこには愛情があるのだ。


けれど、最初の入り口で間違えたレオは、その事に一切気づいていない。


未だに妻は自分の兄を慕っていると信じ続けている。


「そんなに気になるなら、一度尋ねてみられては?」


ああだこうだと頭の中で押し問答を続けるレオに、助け舟を出せば。


「自分の妻に失恋する夫が何処にいる」


と素っ気なく返されて、こりゃあ駄目だと匙を投げた。


これは奇跡でも起こらない限り関係改善は難しいと思っていたのだが。


マーカスは、真面目な顔でこちらの意見を待つ上司を丸眼鏡越しにちらりと見上げた。


独身時代は引く手数多の色男だった癖に、今じゃまるで形無しだ。


靡きそうにない相手を振り向かせることなんてワケもなかったこの人が、指一本触れられずもがいているなんて。


「社長がいつも人前でやっている事を、そのままやればいいんですよ。あれが本心だと奥様が気づけばそれでいいんですから」


分かりやすいアドバイスを口にした秘書に、レオは深々と溜息を吐いた。


「俺と二人きりの時の奥方の顔を見せてやりたいよ」

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