第12話 仮面夫婦の仮面のほころび

カンティーナタウンの駅舎を出た大きなロータリーの前で、リーシアは唖然として立ち尽くした。


これからメトロに乗り換えて帰宅しようとしていたのに。


「やあ、お帰り。長旅だったね」


彼の愛車であるオペルの青い車体に凭れかかって片手を上げて見せるのは、紛れもなく自分の夫で。


何かあったのかと眉根を寄せるも、辺りには記者らしき人物は見当たらない。


が、人の目は当然あるのだ。


「迎えに来てくださったの?嬉しいわ。私、帰りの列車の時間伝えたかしら?」


「親切な義姉君が連絡をくれたよ」


「・・・レイが・・まあ、そう」


一緒にマナーハウスに出向いても、エレーナとは必要最低限の挨拶しか交わさなかったレオが、彼女とどんな話をしたのか物凄く気になる。


彼女に全てを打ち明けた後なだけに。


取り繕う事を忘れて視線を下げてしまったリーシアの手から、荷物を受け取ったレオが助手席のドアを開けた。


「さあ乗って。家に帰ろう」


「・・ええ・・そうね。あなた、今日のお仕事は?」


時刻はまだ15時過ぎ。


終業には早すぎる時間である。


「今日はこの後の時間をきみと過ごそうと思って」


「・・・」


黙り込んだリーシアの前に、淡いピンクの色彩が飛び込んできたのは次の瞬間だった。


目の前いっぱいに広がる柔らかな色合いに目を瞬かせれば。


一拍置いてから芳醇な薔薇の香りに包まれる。


「・・・プリムローズ」


受け取った花束に視線を落として、これはどういう意味だろうと考える。


自分が不在の三日間の間に何か起こったのか。


実は気づいていないだけで、離れた場所に記者が隠れている可能性だって大いにある。


となれば、答えは一つだ。


「嬉しいわ。今日はどこに連れて行って下さるの?」


「それは勿論、二人の家だよ」


「え・・?」


これから帰宅する為だけにレオは自分を迎えに来たのか?


それもわざわざ抱えきれない位大きな花束を用意して?


再び難しい顔になったリーシアの眉間に、屈みこんでキスをして、レオはあっさりと助手席のドアを閉めた。


「え、あの・・・ちょ・・」


後部座席に記者が隠れているのではとバカみたいな事すら考えてしまう。


恐る恐る振り返るも案の定後部座席は空っぽだった。


「どうかした?」


運転席に乗り込んだレオが、背後を振り返るリーシアに声を投げる。


「いいえ・・・別に・・・あの・・・今日は何かあるの?」


予想していなかった出来事の連続で、いつもの調子が出てこない。


外向きの妻でもなく、赤の他人でもない時の自分の顔は、用意してこなかったのだ。


ガサゴソ鳴るかさばる薔薇を抱え直して問い返せば、じいっと食い入るように見つめられて息が詰まる。


「何か言って?私がいない間に困ったことが起こった?」


おしどり夫婦の仮面はそう簡単には剥がされない自信があるが、この世に絶対はないのだ。


誰もいない場所でも演技を続けなくてはならない程の緊急事態があったのだろうか。


神妙な面持ちで答えを待つこと数十秒。


ふっと息を吐いたレオが、表情を柔らかくした。


「いや、何も。困った事は起こってないよ。心配しなくていい」


「ああ・・そう・・なら、これは?」


問題がないならそれに越したことは無い。


重たい位の花束の意味を次に問いかけたリーシアの頬に、一瞬後に熱が走った。


軽やかなリップ音と共に吐息が触れて、レオの気配が離れる。


「・・・っ」


すぐにエンジンが掛かる音がした。


髪にキスをされた事は今まで何度もあるけれど、それ以外の場所に唇が触れたことは一度も無い。


さっきの眉間へのキスといい、頬へのキスといい、どういう意味なのだろう。


尋ねるべきか、それとも黙っておくほうが賢明なのか答えに迷うリーシアの隣で、レオがいつになく楽しそうに口角を持ち上げた。


「これからは本気で奥方を口説こうかと思ってね」


「・・・・はい?」


空耳かと思った。


「あの・・・ちょっと、あなた・・・旦那様・・・」


「なんだい?」


「もう一度訊くわ。記者もいないし、レコーダーも無いのよね?」


あり得ないとは思うが、リーシアが預かり知らぬうちに、密着取材を引き受けでもしたのだろうかと探りを入れる。


それならこれからはさらに言動と行動に気を付けなくてはならない。


「ここには俺達二人きりだよ。証拠を残したいなら録音しても構わないけど」


「・・・何を言ってるの?」


久しぶりに素の顔と声が出た。


エレーナの前で、散々泣いて愚痴をこぼして泣き言を言ったばかりだからかもしれない。


「ねえ、旦那様、なにか悪いものでも食べた?」


一体この夫はどうしてしまったのか。


「俺はいつも通りだよ。きみのことを昨日も今日も変わらずに愛している」


「だから・・そういうのは人前で」


「確かに最初はそうだった。おしどり夫婦と呼ばれることは、俺の立場的には物凄く都合が良かった。きみは期待以上の働きをして、俺と会社の為に尽くしてくれてる。どれだけ感謝してもしきれない位だ」


公の場では何度も耳にして来た労いの言葉。


けれど、二人きりの車内で真横から聞こえて来る声は、記者に囲まれていた時の数倍優しくて静かだ。


これまでの努力が全て報われた気がした。


この結婚を選んだ以上、覚悟していた事だ。


こんな風に思って貰えるのなら、これから先だって外向きの妻を必死に演じ続けて見せる。


仮面夫婦だっていいじゃないか、これも一つの夫婦の形だ。


間違いなくレオは自分を信頼してくれているし、頼りにしてくれてもいる。


妻として愛されることは無くても、インツォリア夫人という立派な肩書がリーシアにはあるのだ。


込み上げて来た涙を必死に堪えて、くすんと鼻を啜れば、伸びて来た指の背で優しく目尻を拭われる。


「最初は俺にとってもきみにとっても、不本意な結婚だったと思う。それは否定しない。だけど、今はそうじゃない。俺はきみを必要としているし、これからも側にいて欲しいと思ってる。ずっと、そう思ってきたんだ」


「・・・ありがとう。私も同じ気持ちよ。あなたの妻でいられて幸せだし、これからも力になれたらと思ってる」


もっと早くこんな風に言葉を交わせばよかった。


二人なりの夫婦の在り方を、手探りで探してみればよかった。


三年目にして初めて、ちゃんと夫婦として向き合った気がする。


「俺は、きみを愛してる。外向きの妻としてじゃなくて、シア、きみ自身を愛してるんだよ」


「・・・・」


不意打ちに聞こえて来た告白に、リーシアは当然黙り込んだ。


言われた言葉の意味を噛み砕いて飲み込んで、そして狼狽した。


「あ、あなたそんなこと一言も言った事ないじゃない!」


「いつも伝えて来たつもりだったんだ。俺がきみに関して口にした言葉には、誓って一つの嘘もないよ」


「いつも・・・いつも!?」


「二人きりになると途端にシャッターを下ろしてしまう奥方を口説くチャンスは公の場しかないからね」


外向きの妻以外での夫への接し方が分からず、会話を諦めたのは事実だ。


という事は、これまでのあれやこれやの美辞麗句やスキンシップは、全て、全て!?


「プリムローズは気に入った?」


「・・・え!?・・・ええ・・嬉しいわ」


「花言葉は知ってる?」


「プリムローズの・・?いいえ・・・見た目が可愛い花だな、と思って昔から好きだったけれど・・・」


「永続する愛情」


「・・・」


「俺は最初にこの花束をきみに贈った時から、ずっときみに焦がれて来たんだよ」


花言葉を聞いてしまった今、膝の上に抱えた薔薇の花束の重みは、数分前の比ではない。


最初にプリムローズを貰ったのは、結婚一年目の事だ。


そんなに前から、彼は、ずっと・・・


「それで、俺にもチャンスを貰えないかな?」


まるでデートに誘いかけるような口調で、レオは軽やかに切り出した。


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