第23話 おしどり夫婦とハネムーン列車
カンティーナタウンを出発してから三時間、中央都市のターミナル駅を経由して、列車はそろそろ国境に差し掛かる。
山を切り開いて通された鉄道は、大きな川に掛かった橋を越え、渓谷を抜けて、隣国ガイラルディアへと続いている。
長距離列車の一等車両のコンバートメント席で、初めて見る景色に釘付けになっているリーシアの隣では、レオが読みかけの分厚い本から視線を可愛い妻へと移して、目を細めていた。
「後どれ位で到着するの?」
「後一時間ちょっとかな」
「あなたはガイラルディアに行ったことがあるのよね?」
「仕事でね。プライベートでの旅行は初めてだよ。当然、女性を連れて行くのも初めてだから安心して」
「私なにも言ってないわよ!」
一等車両に二つしかないコンバートメント席をわざわざ予約したのは、人目を気にせず旅行を楽しむためだ。
おかげでリーシアは声を張り上げる事が出来る。
妻の剣呑な視線をものともせずに、ひょいと身を屈めて隣に座るリーシアの頬にキスを落とした。
ターミナル駅を出てすぐに回って来た女性の車内販売員が明らかに夫に色目を使ってきたので、一瞬隠しようもない位不機嫌になった事を言外に告げられて、リーシアがぷいと顔を背ける。
真横から忍び笑いが聞こえて来るけれど、知るものかと窓の外を一心に眺める。
すると、手にしていた本を向かいの座席に放り出したレオが、リーシアの腰を抱き寄せて来た。
本格的に機嫌を取りに来ようとする夫の意図をひしひしと感じる。
初めての長距離移動である事と、朝早起きしたせいもあって、列車の心地よい振動にうつらうつらし始めたリーシアに肩を貸すべく、隣の席にレオが移動したのは一時間と少し前の事。
眠いならこっちにおいでと言われて、素直に甘える事にしたところまでは良かったのに。
昼寝から起きた時にどうして向かいの席に移動しておかなかったのだろう。
「最近とくに素直だね、シア。嬉しい限りだよ」
「旅行だから気を抜いているだけよ」
「いつもそれでいいのに」
「おしどり夫婦を返上されたら、旦那様は困るでしょう?」
「俺がきみに構う限りその心配はないよ」
にっこり笑ってこめかみを指の腹で撫でられる。
くすぐったさと同時に、心地よさが込み上げて来るのは、もう刷り込みのようなものだ。
耳たぶへのキスのあと、覗き込んだ彼が唇を寄せて来る。
俯くのが一瞬だけ遅れて、まんまと甘ったるいキスに掴まった。
寝起きのリーシアにはちょっと刺激が強すぎるキスだ。
柔らかい粘膜を味見するように舐めてから、上唇を食まれる。
息を飲んだら、慣れた手つきで首の付け根をなぞられた。
息継ぎを思い出させる仕草に、身体の力がするすると抜けていく。
ざらついた舌が忍び込んできても、抗うすべをリーシアは持たない。
従順に口内を明け渡して、吐息を交換し合う。
ゆっくりと舌先で敏感な場所を辿った後で、リップ音と共にキスが終わった。
「せっかくの新婚旅行なんだから、いつも以上に甘えて欲しいな」
目を細めるレオに、この状態で言う事なのかと眉根を寄せれば。
じいっとリーシアの顔を見た彼が、何かに気づいて声を上げた。
外の景色になにか変化があったのだろうかと、窓の向こうに首を巡らせる。
「さっきの違和感はこれか・・」
小さく呟いたレオが、リーシアの顎を捕まえて、自分の方へ振り向かせた。
蠱惑的な笑みに掴まって、思わずきゅっと唇を引き結ぶ。
と、淡い桃色のそれをちょんと人差し指で突いて、レオが嬉しそうに口角を持ち上げた。
「今日は口紅をしてないな」
「・・・」
忘れたのではない、わざとだ。
二人きりになると、彼はしょっちゅうリーシアに唇を寄せるので、それを見越して口紅だけは塗らずにアパルトマンを出た。
ピンクのルージュはハンドバックの中にちゃんと入っている。
「持ってきてるわ」
列車を降りる前にきちんと化粧直しをするつもりだった。
レオの仕事がひと段落して、まとまった休暇が取れそうだと分かった時、彼からハネムーンに誘われた。
思えば、結婚してからこの三年、結婚式はおろか新婚旅行にさえ行く事なく仮面夫婦を演じ続けて来たのだ。
正真正銘の本物の夫婦になった今、少しばかり休暇を貰っても誰にも文句は言われまい。
レオの提案に、リーシアは二つ返事で頷いて、次に旅行先について頭を悩ませることになった。
カンティーナタウンを出れば、二人の知名度は一気に下がるが、それでも国内に居れば、いつどこで知り合いに遭遇するか分からない。
今ではおしどり夫婦を装わずとも、誰が見ても仲睦まじい夫婦である二人だが、どうせならインツォリア夫妻を知っている人がいない場所で、旅行を満喫したかった。
そこで、レオが仕事で出向いたことのある治安の良い隣国の名前を上げた。
そこでなら、誰に気兼ねすることなく夫婦らしい時間を満喫出来るから。
ガイラルディアは、未だに古来の魔法が残っている国で、世界中の魔術師が集い、日夜研究を重ねる魔術師塔と呼ばれる国営機関が存在する。
王都周辺には、魔道具を取り扱う店がいくつもあって、そこで祝福の魔法を授かるのが、ハネムーンに訪れた夫婦の定番となっていた。
「きみの唇は無垢なままだし、列車は当分駅には着かない。車内販売は多分もう来ないだろうから・・・」
悪戯を思いついた子供ように微笑んで、レオが声を低くする。
「折角二人きりだし、ちょっと特別なことしてみようか?」
国境を越えた途端、良識のある紳士的な夫の仮面を脱ぎ捨てたレオに、リーシアは真っ赤になって叫んだ。
「とんでもないこと言わないで頂戴!」
彼の頭の中を巡っているあれやこれやを考えると、このまま倒れてしまいそうだ。
「いまきみが考えた事、向こうに着いたらしてあげるよ」
必死に夫との距離を取る妻をあっさりと抱き寄せて、レオが幸せそうに笑う。
そうして、さっき車内販売で購入した、甘い香りのするチョコレートケーキをリーシアに向かって差し出した。
「俺の分まで甘くなってくれる?」
食べなくても分かる。
このチョコレートケーキは、きっと歯が溶けそうなくらい、甘ったるいに違いない。
仮面夫婦のやり直し 宇月朋花 @tomokauduki
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