仮面夫婦のやり直し
宇月朋花
第1話 仮面夫婦の妻の日常
「本日はお招き頂きましてありがとうございます。こちらの素敵なサロンのお話は、主人から何度も聞いていましたの。ご一緒させて頂けて光栄ですわ」
カンティーナタウンの一等区画にある、コロニアルスタイルの瀟洒な邸宅の女主人は、そこかしこに鮮やかなペチュニアが咲き乱れる広い前庭に続く大窓を開け放ち、談話室に集った女性たちに向かって、本日の客人を紹介した。
「ようこそお越しくださったわ!インツォリア夫人、それとも、ミズリーシアとお呼びした方がよろしいかしら?」
「折角の女性だけの集まりですもの。私の事はリーシアとお呼びください。皆さまも、ぜひ」
この部屋に入った瞬間から、女性陣の視線を一身に集めているリーシアは、適度に気さくな、けれど謙虚さは失わない控えめな笑みを浮かべて見せた。
サロンの主催者であるメルロ夫人は、リーシアの返事にふくよかな身体を揺らして満足げに頷いた。
出だしは上々といったところだろう。
支援を行っている美術館や博物館への訪問でもなく、慈善活動に参加するわけでもなく、ましてや観劇に行くわけでもない。
華美過ぎず、砕け過ぎず、畏まり過ぎない、そこそこ上品で、決して悪目立ちしないコーディネートを必死に考えた結果、パフスリーブの袖がカジュアルな雰囲気にしてくれるベージュホワイトのワンピースを選んだ。
ぐるりと見回した既存の参加者たちの表情は、みな好意的で、受け入れて貰えたようだとホッとする。
「では、リーシアと呼ぶことにしましょう!いつも精力的にご主人のサポートを行っている社長夫人の貴重な時間を頂くわけですから、早速お茶会を始めましょうか!」
いくつもの指輪が輝く女性としては少々逞しさを感じる両手を打って、メルロ夫人が開会を宣言した。
三人掛けの大きなソファの他に、一人掛けの肘掛け椅子が数脚、大きな大理石のテーブルの上には、薔薇の模様が美しい白磁のティーセットが一揃えと、お茶請けのクッキーやマカロンが並べられている。
メルロ夫人に案内されて三人掛けのソファの端に腰を下ろすと、あっという間にリーシアの隣と、前と、斜め前の椅子は埋まってしまった。
「お会いできて嬉しいわ、リーシア」
「こちらこそ、仲間に入れて頂いて嬉しいわ」
「先日の美術展で、御主人と一緒の所をお見かけしたわ。本当に仲睦まじいご夫婦なのね、羨ましいわ」
「記者たちが、ネタに困るとインツォリア夫妻の事を書きたがるのも分かる気がするわ。本当に素敵なご夫婦ですもの!」
「ねえ、御存じかしら?インツォリア兄弟とあなた方姉妹の結婚が記事になった時には、町中の娘たちは、子爵派か、実業家派か、と散々言い争ったものよ」
「ええ・・何度かそんな噂を耳にしたことがあるけれど、そんな派閥争いがあったのね」
「だってこんな素敵な夢物語があって!?」
斜め前のリーシアと同世代と思われる赤髪の女性が、ティーカップを持つ手を震わせながらうっとりと目を細める。
応じるように頷いたのは、肘掛け椅子をソファの近くまで引き寄せた焦げ茶色の髪の中年の女性だ。
「兄弟で同じ日に、それも同じ姉妹に一目惚れをして結婚だなんて、若い乙女が憧れないわけがありませんものね」
「お姉さまのエレーナは、結婚後は子爵夫人として家庭を守り、妹のリーシアは、積極的に社会貢献活動に参加して女性の社会進出を手助けして、まさに女性の憧れ全てを手に入れたも同然よ」
羨ましいわ、とそこかしこから溜息が聞こえる。
リーシアは、目を伏せて口元の笑みだけで応えた。
「それが、私の今の役目ですから」
「素晴らしい考え方だわ!今や女性は未来を選べる時代ですもの。女性が大学まで通うなんて私たちの時代では考えられない事だったけれど、今は奨学金制度も充実していて、身分の貴賤に関係なく学ぶ事が出来る。家庭に入るか、自立して生きていくか、選択肢が持てるという事はそれだけで人生の幅が広がりますもの」
「でも、当然結婚後も自由を守りつつ生きていく為には、それなりの殿方を選ばなくてはならないわ」
「勿論、その通りです。ですから、若いうちから様々な人を見て、生涯のパートナーとなる男性をきちんと見極めなくてはいけませんよ」
既に娘二人を市議と商家に嫁がせているメルロ夫人の偉大なるお言葉に、リーシア以外の全員が神妙な面持ちで頷く。
「本日このサロンに集った皆さんは、すでに婚約が決まっていらっしゃる方、これから素敵な殿方と出会う予定の方、すでにご結婚されている方、様々ですね。皆さんが、これから築いていく素晴らしい未来の指標となるに相応しい女性が、リーシアだと私はそう思っています。ですから、疑問に思う事、悩んでいる事、何でも彼女に尋ねてみましょう。きっと素敵なヒントが貰える筈だわ」
茶目っ気たっぷりに片眼を瞑って見せたメルロ夫人と、期待溢れる女性陣の熱視線に、頬を引き攣らせないようにどうにか笑みを浮かべる。
メルロ夫人の質問をどうぞ!の言葉を皮切りに、次々と年若い女性たちがリーシアの元へと詰め寄って来た。
淹れたての紅茶をゆっくりと味わう暇もない。
「私は来月結婚する予定なんです。彼は弁護士なんですが、仕事が忙しくて・・リーシアの旦那様は休日もお仕事に出掛けられる事が多いでしょう?お寂しくはないのかしら?」
「ええ。彼が仕事を生きがいにしている事は結婚前から分かっていましたから・・・勿論、夫婦の時間が少なくなる事に多少の寂しさは覚えますけど、時々、彼の会社に顔を出して隙間時間にお茶や軽食を食べながら足りない時間を補うようにしています」
これは、結婚してから一番多く尋ねられる質問で、定番の回答はもう寝ながらでも答える事が出来る。
「努力してらっしゃるのね・・・素晴らしいわ」
「夫婦というのは、歩み寄りの精神が大切だと両親から学んで来ました。お互いを尊重して、思いやりの心を忘れなければきっと素敵なご夫婦になりますわ」
これは、一番胸を張って言える台詞である。
なぜなら、嘘では無いからだ。
噛み締めるように頷いた結婚予定の女性に変わって、別の女性が声を上げる。
「私の夫はカンティーナ美術館の学芸員なの。展覧会の度にご夫婦と会えるのを楽しみにしていると話していたわ。毎回作品について様々な質問をされるから、奥様は美術関係の造詣が深いのではないかと言っていたけれど、御趣味が絵画鑑賞なのかしら?」
「残念ながら、私の実家は名ばかりの男爵家で、素晴らしい芸術作品には縁のない子供時代を過ごしたの。主人と結婚してから様々な芸術品に触れる機会が増えて、その度に彼から教わった知識を飲み込むことで精一杯ですから、的外れな質問をしてしまっているかもしれませんね。申し訳ないわ」
これも、結婚してから三か月程経ったころに飛び交い始めた質問だ。
答えには半分嘘があるが、体面的には百点満点だろうと自負している。
リーシア・インツォリアに課せられた使命は、外向きの完璧な妻なので。
「じゃあ、休日はご主人と絵画鑑賞を?」
「ええ。私的に博物館や劇場に伺う事もありますし、彼が勧めてくれた新進気鋭の作家のアトリエを訪問する事もあります。芸術の分野は本当に奥が深くて、まだまだ勉強不足な事ばかりですの」
これは8割が嘘だ。
美術館や博物館に出向く前日には、展示作品と作家についての事前情報を徹底的に頭に叩き込んでおく。
当日は、学芸員や館長が案内役を買って出る事が多いので、分かりやすく質問を投げては、夫から教えて貰って、と主人を立てるのだ。
ちなみに、本当の休日を二人で満喫した事は、結婚してから一度も無い。
「あ・・・あの・・・私からもよろしいかしら?」
少し離れた一人掛けの肘掛け椅子に腰かけていた、控えめな印象の女性がおずおずと手を上げる。
「勿論ですわ。なにかしら?」
「あの・・私はまだ婚約が決まっていなくて・・・最近父の紹介で・・パトレス書店のご子息とお見合いをしたんです・・まだ、お友達程度のお付き合いなんですが・・・その・・私、誰とも恋をしたことが無いので・・・駆け引きの方法が・・分からなくて・・リーシアさんは、どうやって素敵な旦那様を射止めたのか教えて頂けませんか!?」
一番厄介な質問が飛び出して、リーシアは一瞬だけ遠い目になる。
おしどり夫婦として、新聞記事を飾るようになって半年が過ぎた頃から、一番増えたのがこの手の質問だ。
妙齢の娘を持つご婦人や、今まさに適齢期の未婚女性の集まりに呼ばれるようになったのもこの頃から。
女性の地位向上と、社会進出への貢献が目的の集まりだと思い込み、勇んで挑めば、矢継ぎ早に繰り出されるのは恋の駆け引きやら、夫婦円満の秘訣やら、はたまた意中の彼を射止める方法やら、リーシアにはとんと縁のない質問ばかりで、あたふたしたあの頃が今では懐かしい。
そっと視線を窓の向こうへと向けて、まるで二人の出会いを遡るかのような表情の裏側で、大量に買い込んだ恋愛指南書の頁を素早く捲っていく。
わざとらしくなくて、共感を得られて、且つ高慢にならない回答を導き出せるようになるまで、リーシアは二週間程部屋に引きこもって読書三昧の日々を過ごした。
おかげで今では狼狽える事無く綺麗なアドバイスを口にする事が出来る。
「恋とは真心を贈り合う事なんですって。私は主人と出会った時、新聞に書かれている程胸はときめきませんでした。さっきもお話した通り、我が家は一等区画に屋敷を持っているわけでもない、名ばかりの男爵家でしたし、インツォリア家と縁続きになるなんて恐れ多い事は考えた事も無かったんです。ですが、彼の仕事に対する情熱と、誠実な態度を見ているうちに、この人を傍で支えたいと思うようになったんです。私の事を知ってもらう、というよりは、彼が情熱を傾けている仕事に対する理解を深めて行く事に努めました。そうするうちに、彼の人となりに好感を持てるようになったんです。そうね・・最初は、確か短い手紙のやり取りだったかしら。忙しい仕事の合間に彼が手紙を送ってくれて、それに私が返事を返す事から始まって・・そのうち、私の方から、彼の仕事を気遣う手紙を送るようになりました・・・今の質問の答えになっていないかもしれないけれど・・相手を大切に思う気持ちを素直に伝える事が必要だと思います。ああ、でも、時には彼からの返事が遅くてやきもきした事もあったわ・・・返事を待たずに何通も手紙を書いてしまった事も・・これが、駆け引きというのかもしれませんね」
嘘には少しの真実を混ぜる事、それが嘘だとバレない秘訣だと、リーシアは結婚してから知った。
感じ入るように頷いた未婚女性に、別の情報をもう一つ追加して、背中を押してやる事にする。
「それと、パトレス書店は、主人の会社とも懇意にして頂いている優良企業です。社長のお人柄は勿論の事、ご家族もとても温かい方達ばかりですから、安心して婚約なさると良いわ」
「ありがとうございます!」
「ねえ、リーシア・・・ぶしつけな質問をしても良くて?」
待ち構えていたようにソファの方へ身を乗り出して来たのは、リーシアより少し年上の既婚女性だった。
どうぞ、と笑顔で頷けば、豊満な胸元を押し出すように身を屈めて、彼女が声を潜めて続ける。
「そのう・・・とても仲睦まじいご夫婦だから・・・きっと夜の夫婦生活も円満なのよね?お子様はまだいらっしゃらないけれど、あなた達夫婦の不仲の話題は一度も聞いたことが無いもの。実を言うと、私たち夫婦にも子供がいないの。結婚して二年なんだけれど・・そろそろ・・そういう行為にもマンネリが生まれてしまって・・」
突然始まった赤裸々な話題に、未婚女性は頬を赤くして、年上の既婚女性たちは僅かに眉を顰める。
が、メルロ夫人を始め、誰一人としてその質問を咎めようとはしなかった。
リーシアは、突き刺さるような視線を受けながら、ぎゅうっと胃の縮む思いを堪える。
結婚生活が始まってから三年。
子供がいないにも拘らず、新婚夫婦のような仲の良さを見せつけ続けているインツォリア夫妻は、結婚の遅かった夫婦や、子供が出来ない夫婦からの圧倒的な支持を受けていた。
「・・・マンネリ・・ね・・・ちょっと私にはお答えできないわ・・一度もそう感じたことが無いものだから」
息を止めて頬が赤くなるまで必死に堪える。
こうすれば、まるで昨夜の閨事を思い出しているように見えるからだ。
頬を染めて俯くリーシアに、女性陣からほう・・と艶っぽい溜息が零れた。
「一度も飽きた事がないのね・・・!羨ましいわ」
ごくりと唾を飲んだのは、高齢の既婚女性で、若い既婚女性たちは扇子を広げて扇ぎ出す。
「ご主人は、やっぱりベッドでも優しいの?それとも支配的?」
「・・・・主人はいつも紳士的で・・とても優しくしてくれるわ。強引だったことは一度ないの」
「まあ・・ご主人は本当にあなたを大切にしているのね」
「そんなに愛されているのに、コウノトリは意地悪ね!早く子供を授けてくれればいいのに」
無邪気な未婚女性の言葉に、メルロ夫人を始めとする既婚女性は咎めるような視線を彼女に送った。
そんな女性陣を穏やかに見回して、リーシアは用意していた答えを柔らかく口にする。
「今はまだ、精一杯夫の仕事を手助けしなさい、という神様の思し召しなんでしょうね。主人は子供がいない私も昔と変わらず愛してくれているから、特に不満は感じていません。子供が出来ない事で、結婚を諦めたり、夫婦生活を破綻させてしまう事は、とても残念に思います。主人が常日頃から口にしているように、同じ家で暮らせば家族、ですわ。カンティーナタウンには立派な孤児院もありますし、養子縁組の制度も充実しています。この先子供が出来なくても、家族を作る方法はいくらでもあると思っているんですよ」
中央都市よりも治安が良いとされているカンティーナタウンには、貧困街が存在しない。
内乱で国が乱れていた時代、この街の統治し、平穏を取り戻したセギュール・カンティーナは、貧困街で生まれ育ったマフィアのボスだった。
以降、彼の名前から付けられたカンティーナタウンを名乗るようになったこの街は、ホワイトマフィアとして、善良な自衛集団とも呼べるカンティーナ一家によって守られている。
国家よりもカンティーナ、がこの街の住人の合言葉だ。
そんなセギュール・カンティーナが、街を統治して最初に行った事が、貧困街の閉鎖と、貧困層への支援だった。
街のそこかしこに存在する教会が家のない人々を保護し、親を亡くした子供や、出稼ぎに出掛けている親を待つ子供たちは、カンティーナが所有する孤児院で保護し、育てられる。
セギュール・カンティーナは、自ら進んで何人もの孤児を養子として受け入れており、彼に感銘を受けた上流階級の子供がいない夫婦がそれに続いたため、養子縁組はこの街では珍しい事ではない。
「あなたのような女性を妻に迎えられたご主人を羨ましく思うわ!」
「まさにカンティーナタウンが誇る理想の夫婦ね!」
包み込むように聞こえて来る美辞麗句にありがとう、と穏やかに答えて、リーシアはこの場を乗り切った達成感を独り噛み締めていた。
今日もそつなく無難に社交をこなす事が出来た。
これ以上赤裸々な話題が振られると今度こそお手上げなのだが、メルロ夫人が主催のサロンなので、さらに下世話な話題が出る心配はないだろう。
万一飛び出したら、もう頬を染めて黙り込むよりほかにない。
だって答えられないから。
リーシア・インツォリアは、夫から愛された事も無ければ、当然同じベッドで朝を迎えた事も無い。
カンティーナタウンが誇るおしどり夫婦は、何処に出しても恥ずかしくない程立派な、仮面夫婦だった。
リーシアとて、そんな関係を望んでいたわけではなかった。
けれど、最初の出会いから、今日まで、すべてのボタンを掛け違えたまま、走って来てしまったのだ。
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