第21話 おしどり夫婦と社長室のかくれんぼ

「奥様がお見えになってますよ。多分、まだ社長室にいらっしゃるかと」


取引先の商談から戻ったレオは、マーカスから報告を受けて、今週の彼女の予定を思い出した。


リーシアが会社に顔を出す時には、極力書類仕事を捌くようにしているレオなので、今回の訪問は予告なしの完全なイレギュラーだ。


何かあったのだろうかと無意識のうちに難しい顔になったレオに、マーカスが大丈夫ですよ、と笑いかけた。


「奥様はいつも通りご機嫌でしたし。なんだかやけに可愛かったので、良い事があったのかもしれませんね」


「上司の妻に対する褒め言葉なのかそれは」


もうちょっとあるだろう言い方が、とぼやいて、なんでお前からそれを報告されるんだと毒づきそうになる。


「顔を合わせるのが恥ずかしいから、早々に帰るって仰ってましたけど。まだバスルーム事件引き摺ってるんですか?」


「・・・いや。その話題自体出してない。忘れる努力をするって約束したからな」


「まあ、そうですよね。今更湯上りの妻と鉢合わせして鼻血出したなんて、ちょっと軽い変態で・・痛ぁあ!」


「お前はその減らず口を直さないと次のボーナスは出ないぞ」


「職権乱用ですよそれ!ちゃんと奥様の事は引き留めましたからね。もし帰られていても、僕のせいじゃないですからね・・」


「分かった、分かった・・・」


リーシアが会社に来た時に、自分が不在であれば出来るだけ引き留めて滞在時間を伸ばすようにと指示を出したのは、仮面夫婦の頃の話だ。


未だに律儀に守ってくれている真面目な部下の評価をこっそり上げておく。


社長室のドアを開けると、部屋は薄暗いままだった。


夕陽が綺麗に差し込んでおり、暗いと言うほどではないが、手元の明かりは必要な時間帯だ。


「あれ・・居ないぞ?」


「ええー・・可笑しいな・・本当に大急ぎで帰られたんでしょうか・・」


社長室に足を踏み入れたレオが、執務机の上に置かれたブリキのおもちゃに気づいて、そのまま視線をその奥へと向かわせて、止まった。


レオを追いかけて、社長室に入ろうとしていたマーカスを振り替えって、人差し指を立てる。


怪訝な顔をするマーカスに、出て行け、とその手を振って合図をすると、ひょいと眉を持ち上げたマーカスが心得たように笑顔になった。


一人になったレオは、静かにドアを閉めて、明かりは付けずに執務机の奥へと向かう。


不自然に引かれた椅子の向こうに、ベビーピンクのワンピースの裾がひらひらと揺れているのが見て取れた。


理由は分からないが、リーシアが執務机の奥に膝を抱えて蹲っている。


喧嘩はおろか軽い口論すらしていないので、リーシアが自分を避ける理由が分からない。


唯一考えられるのは、先日のバスルーム事件だが、あの日の夜もいつも通りの態度で接したレオに安心したように、リーシアは緊張を解いて見せた。


執務机の足元を覗き込む前に、僅かに位置のズレた写真立ての隣にあるブリキのおもちゃをつかみ取る。


それは、レオの愛車、青色のオペルだった。


リーシアは恐らくこれを届けたくて、ここまでやって来たのだろう。


自宅では無くて、わざわざ会社に。


予告もなく現れた理由は、考えるまでもなく分かった。


リーシアの気持ちごと掬い上げるように、それを掌に乗せて、今度こそ執務机の足元を覗き込んだ。


「社長室でかくれんぼかい?奥方」


「・・・っ気付かない振りをする思いやりは無いのかしら、旦那様?」


「可愛い妻が俺を訪ねてやって来てくれたのに、その選択肢はどこにもないよ」


柔らかく微笑んで、リーシアの目の前に、ブリキのおもちゃを翳して見せる。


「・・・素敵な贈り物をありがとう」


出来ればこれを見つけた瞬間の、リーシアの表情を真横で眺めていたかった。


ぱちぱちと瞬きを繰り返したリーシアが、迷うように視線を揺らして唇を開く。


「あ・・あのね」


「うん」


「今日は、職業訓練校に行ったのよ」


「そう言ってたね」


「それでね、少し・・時間が空いたから、大通りに出たの。目的も特になくて、のんびり歩いていたら・・・オペルを見つけたのよ」


「うん」


柔らかく頷いて、続きを促せば、目の前のリーシアがじわりと瞳を潤ませた。


抱えた膝に頬を寄せて途方もない表情で呟く。


「真っ先に、あなたの顔が浮かんだわ。どうしても・・すぐに・・・会いたくなって。それで、そのままここまで来たの・・だけど」


「うん」


「自分の気持ちと行動にびっくりして・・・すぐに帰ろうと思ったのよ。あなたに会ったら・・どうなるか分からないから・・なのに、こんなにすぐに戻って来るなんて・・」


「それで、慌ててここに隠れたの?」


マーカスを早々に退場させて本当に良かった。


問いかける自分の声が、高揚感と緊張で掠れている。


レオが掌の乗せたままのオペルをそっと撫でて、リーシアが泣き笑いの顔になった。


「・・・そうよ。だって・・・こんなのどうやって伝えればいいの?ねえレオ、私あなたがとても好きよ。心から愛してるの」


小さな告白は、確かに真っ直ぐレオの胸を撃ち抜いて、そのすべてを一瞬のうちに捕まえた。


加減を忘れて腕を伸ばして、狭い執務机の奥から愛しい妻を引き寄せる。


膝裏を掬ってそのまま抱き込めば、躊躇う事無くリーシアが肩口に甘えて来た。


耳の後ろを優しく撫でて、輪郭を辿った後で唇を重ねる。


差し込んだ夕陽が、リーシアの赤い頬をさらに濃く色づかせた。


柔らかく食んで、優しく唇を吸って、そっと舌を絡ませる。


リーシアは素直に応じてつたない仕草でキスに応えた。


小さな舌先を甘く吸って、舌裏をなぞって震える身体をきつく抱きしめる。


しがみついて来る指先を絡めとって、爪の先にキスをしてからもう一度唇を重ねた。


「・・・・ン・・」


顎を引いてあえかな声を漏らしたリーシアの後ろ頭を引き寄せて、さらにキスを深くする。


後ろに傾いた身体を腕の中に抱き込んで吐息を交換するように唇を探った。


息継ぎを気遣ってやる余裕もなく唇を貪った後で、レオが涙目のリーシアの眦に一番優しいキスを落とした。


「俺がどれ位その言葉を聞きたかったか、わかる?」


掠れた声で囁けば、上目遣いにこちらを見上げたリーシアが眉根を寄せる。


「教えてあげるよ」

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