第19話 おしどり夫婦と朝のバスルーム
インツォリア夫妻に雇われている通いの家政婦であるマーサは、毎朝11時前後にアパルトマンにやって来る。
掃除と洗濯、それから夫婦が揃って夕食を食べる際にはメインとなる料理を一品作って、夕方までに帰宅するのが彼女の仕事になっていた。
そんな彼女から、休暇の申し出が出たのは二日程前の事。
地方に住む娘夫婦がやって来るので、休みを貰いたいと言ったマーサに、インツォリア夫妻は勿論頷いて、家族で美味しい料理を食べるようにといくらかの紙幣を包んで、快く送り出した。
二人が仮面夫婦をやめてから、初めてのマーサが居ない二日間である。
寝室を一緒にしてからのレオは、極力早朝出勤をせず、朝の時間もリーシアと一緒に過ごすようにしていた。
マーカス曰く、これぞ正しい社長の在り方らしい。
日によっては出かけるリーシアを送り届けた後で重役出勤することもある。
相変わらず寝不足の日々は続いているが、最近ではレオが眠るのを見届けてすぐに自然と眠気に襲われるようになった。
リーシアの欠伸が移ってばかりいたレオも、これには大いに喜んだ。
隣で眠る彼の体温に、身体が馴染んできたのだと思う。
寝がえりを打つたび目を覚ましていたのが嘘のように、ここ数日は朝まで熟睡できるのだ。
リーシアがレオに慣れるのを待っていたかのように、彼は少しずつ二人の隙間を埋めるようになった。
最初は手を繋いで、その次には腕を絡ませて、そして最近では欠伸をしたリーシアを腕の中に抱きしめて目を閉じる。
そのまま朝を迎える事もあれば、明け方肌寒さを覚えたリーシアが、レオに抱きついた格好で目を覚ます事もある。
レオの寝室はいまやすっかり夫婦の寝室になっていた。
相変わらず、ベッドに入ると贈られるのはもどかしい位優しいキスばかりだが、リーシアの心は彼の唇が触れる度にときめいて苦しくなる。
まだ、その事を上手く彼に伝えられていないけれど。
今朝は、いつも通り先に目を覚ましたレオが、身支度を整えた後で、リーシアにおはようのキスをした。
今日は午後から孤児院の慈善活動に参加するので、朝寝坊が出来る貴重な一日だった。
取引先に向かう彼も、いつもより遅く起きたようで、枕もとの時計は10時を少し回った所だった。
「俺はもう出るよ。もう少し寝るなら、後から電話で起こそうか?」
髪を撫でながら優しく問いかける夫の手に頬を寄せて、もう起きるわ、と瞼を閉じたままで答える。
「起きられる?」
なおも心配そうなレオの声に、ベッドの上で大きく伸びをしてからようやっと目を開けた。
「・・・・起きられるわ」
「おはよう、シア」
「あなたはすっかり社長の顔ね、旦那様」
三つ揃えのスーツをぴしりと着こなした夫は、妻の欲目を差し引いても文句なしに格好いい。
腕時計で時間を確かめてから、リーシアの焦点が合っているのを見て、目を細めて額にキスを落とした。
「見惚れてくれたかな?」
「ええ。とっても」
「安心して仕事に励めそうだ。それじゃあ俺はもう行くよ」
寝ぐせのついたリーシアの髪を優しく背中に撫で下ろしてから、レオはベッドルームを出ていく。
暫くベッドの上でゴロゴロとまどろんだ後で、折角なら、バスタブにお湯を張ろうと思いついた。
仮面夫婦だった頃の名残で、未だにリーシアは今は応接となった客室のシャワーブースを使うことが多い。
レオが遅くまで帰らない夜は、広いバスルームを占領して、バスタイムを楽しむこともあるが、ここ最近夕食も一緒に食べる事が殆どなので、ゆっくりとバスタブに浸かっていなかったのだ。
出掛けるまでにはまだ余裕があるし、今日はマーサもやって来ないので、気を遣う必要もない。
お気に入りのバスボムを放り込んで泡風呂を作ると、優雅な朝風呂を楽しんだ。
久しぶりにバスタブで足を伸ばして、好きな香りに包まれて贅沢な時間を過ごしたリーシアは、持ち込んだ目覚まし時計を確かめてからシャワーですべての泡を洗い流した。
後はゆっくりコーヒーを飲んで、身支度をすれば十分間に合う。
バスタブのすぐ横にある棚からバスタオルを取り出して、水気を拭おうとして、ここがいつものシャワーブースではない事を思い出した。
リーシアがいつも使っているバスタオルはアイボリーで、今、身体に巻き付けたものはブラウンだ。
レオが普段使っているバスルームである事に思い至った瞬間、バスローブを忘れたことに気づいた。
これまでは、シャワーブースからバスタオルを巻いて飛び出して、すぐにクローゼットの洋服を着こんでいたので、何も思わなかったが、ここから寝室と併設のウォークインクローゼットに向かう為には、リビングを通る必要がある。
すでにレオは仕事に出掛けたし、マーサもいない。
まあ、問題は無いか、と思って緩く巻き付けたバスタオル姿で、バスルームのドアを開ける。
と、目の前にレオが居た。
「っきゃああああああ!!!」
「シア!?」
どうして1時間近く前に出掛けて行った夫の姿がそこにあるのか。
リビングで棒立ちになってこちらを見つめるレオの視線は、真っすぐにリーシアに向かっている。
適当に巻き付けただけのバスタオルを手で押さえて、大急ぎで寝室に飛び込もうと足を踏み出した瞬間、爪先が床を滑った。
ぐらりと身体が傾いた拍子に、胸元を押さえていた手と、バスタオルが宙を舞う。
慌てて目の前に飛び込んできたレオが、妻の身体を受け止めて、そのまま床に尻もちをついた。
視界の隅で、役立たずのバスタオルが床に落ちるのを見た。
「きゃああああ!」
濡れた背中に回された確かな掌の温もりに、堪え切れずに悲鳴を上げた。
「奥様!?社長、どうされ・・」
玄関からマーカスの焦った声がする。
一緒に此処まで戻って来たようだ。
素っ裸でレオに抱き留められた状態のリーシアは、パニックになってもう何も考えられない。
「開けるな!」
レオが鋭い一言でマーカスを制した。
「だ、大丈夫ですか!?何が・・」
「いいからそのままそこで待ってろ!絶対に開けるなよ!」
念を押すように強く言って、レオが腕の力を僅かに緩める。
「怪我は・・してない?」
「・・・」
声にならずにこくんとどうにか頷けば、レオが慌てたように背中に回していた腕を解いた。
二人の隙間が出来たことにホッとして、次の瞬間自分の格好を思い出して、また慌てて彼の腕の中に飛び込む羽目になる。
「み、見ないで!!!」
「・・・・・・分かってる」
苦虫を嚙み潰したような声を漏らしたレオが、床の上からバスタオルを拾い上げて、リーシアを包み込んだ。
「書類を忘れたことに気づいて取りに戻ったんだ・・・こっちのバスルームを使ったのか」
「・・・バスローブが・・ない事を忘れてたのよ・・」
「次からマーサに頼んでおこう。抱えるよ?」
断るや否や、リーシアの返事を待たずにレオが妻を抱き上げた。
「あ、待って、きゃあ!」
慌ててバスタオルの前を掻き合わせたリーシアが、身を縮める。
そのまま寝室のベッドの上にリーシアを下ろすと、真っ赤な頬にキスを落とした。
「すぐに出るよ。鍵は締めておくから」
「わ・・分かったわ・・・」
視線を合わせる事が出来ないまま返事をして、大事な事を思い出す。
「わ、忘れて!お願い・・」
涙交じりの声で頼めば。
「・・・・努力するよ」
重たい溜息と共に、レオが分かりやすく顔を逸らした。
★★★★★★
「どうされたんですか?奥様の悲鳴が・・」
「なんでもない・・」
短く言って、足早にエレベーターホールに向かうレオをマーカスが小走りで追いかける。
「ですが・・・!!・・・社長」
隣に並んだ秘書が、言い難そうに咳払いをして、どうしてだかポケットティッシュを差し出して来た。
「なんだ・・?」
「鼻血、どうにかしてください」
「・・・!」
「あと、書類」
「・・・・忘れた」
「何やってんですか・・僕が取りに」
「行くな、戻るな」
「でも・・・」
「書類は・・明日でもいいだろう・・それより早くここを離れよう・・・俺の命が危ない」
マーカスの手から乱暴にティッシュを受け取って、レオが死にそうな声で呟いた。
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