刃に問う 1

「……叔母上が、従妹のユリアと婚約するよう、言ってきている」


 先程タウノが手渡した書簡を手に俯いたカイの口から、思いもかけない言葉が漏れる。その言葉とともに顔を上げたカイの、普段は見ない苦い表情に、タウノは微笑をかろうじて堪えた。


「婚約者、なんて……」


 そのタウノの前で、隊長用の広い机に両肘をついたカイが、大きく息を吐く。


 カイの躊躇いは、分かる。『白い土』の所為で今は殆どが不毛の地と化してしまった『平原』から逃げ出す人々を匿い、平原を囲む丘の向こうへと送り出す砦である『始まりの都』を、平原を跋扈する魔物達から守る『夜を守る者』にとって、死は、すぐ隣にあるもの。明日のことなど分からない、その長に、婚約者など、似合わない。……いや、カイはまだ正式には『長』ではないが。だが。タウノにとっては従妹であるアイラがそう言ってきた理由も、タウノには手に取るように理解できた。不明の父を持ち、母すら過酷な運命の中で亡くしてしまったたった一人の甥に新しい家族を与えたい。アイラの申し出は、それが、理由。


「タウノは、ユリアを見たことがある?」


 青年と呼ぶには幼すぎる面立ちのカイを見下ろし、思考を巡らせていたタウノの耳に、不意に、首を傾げるカイの声が響く。


「いいえ」


 そのカイの、母であり、『夜を守る者』の前の長でもあったキーラと同じ顔を見やり、タウノは短く答えた。


 平原を探索する任務を帯びた『翼持つ者』の一員であったカイの叔母アイラは、目印の無い平原で遭難し、全てを枯らす『白い土』でも育つ植物を栽培していた学者に助けられた。その学者と愛を育んだ結果が、ユリアと言う名の少女。そして、ユリアを孕んだアイラがこの『始まりの都』を離れ、丘を越えたすぐ先にある小さな街を支配している貴族であるタウノの両親に保護された後すぐに、タウノの両親は、反りの合わなかった一人息子を、義務を名目にこの『始まりの都』へと追い出した。だから、アイラは知っているが、ユリアのことは、知らない。それで、良いのだろう。カイには分からないように、タウノは薄く笑った。タウノを追い出した両親のことは、既に許している。ぎすぎすとした狭い街での生活よりも、このぼろぼろな『始まりの都』で仲間と笑い合う方が、タウノの性には合っていた。それに、……キーラも、いた。懐に隠した短剣を思い出し、タウノは少しだけ俯いた。


「ところで」


 沈んだ心をごまかすために、話題を変える。


「隊長就任への異議申し立て期間も、今夜で終わりますね」


「ああ」


 叔母からの書簡を脇に置いたカイの頷きに、タウノは今度ははっきりと口の端を上げた。


 『始まりの都』を守護する『夜を守る者』の長になるには、いくつかの条件がある。『夜を守る者』の初代隊長であるライナの血を受け継いでいること、ライナと盟約を交わした優しき獣の牙を身に着けることを許された『夜を守る者』の正式な隊員であること、そして、『夜を守る者』の隊員全てを打ち負かす力を持っていること。『始まりの都』を守るために、キーラが牙を手に一夜限りの獣へと変じ、亡くなった後、新しい隊長へと名乗りを上げたカイは、公的には、自分より年上の者ばかりである『夜を守る者』所属の隊員全てを一対一の試合で破っている。しかしながら。満月から次の満月までの間、隊員達は、隊長候補を闇討ちする権利を持っている。もちろん、謀を巡らせた上で、複数人で隊長候補を屠ることも可。だが、カイを襲った隊員達の全てが、その顔に痣を作ってしまっていることを、タウノはしっかりと知っていた。対して、襲われたカイの方には傷一つ無い。寝込みを襲われたこともあるはずなのに、平然と、少しだけ青白い顔で、隊長用の机の上に散らばる書類を片っ端から処理している。少年らしさというものは、カイには無いのだろうか? そのカイを再び見下ろし、タウノは肩を竦めた。隊長の責務は、重い。この砦に逃げ込んだ人々の世話や、丘の向こうからこの平原の支配権を行使している帝国とのやりとり、そして、獣となり朝焼けに消えた隊員が遺した一対の牙の片方を葬り、もう片方を飾り紐で飾りたて、次の正隊員に渡す。特に最後の職務は、並大抵の心では務まらない。かつては仲間であった者の牙を墓地に葬る度に泣いていたキーラの腫れた瞼を思い出し、タウノは再び首を横に振った。


 気分を変えるために、そっと横を向く。だが、部屋の壁に掛けられた、鋭い牙に飾り紐を取り付けた首飾りに、タウノは唇の震えを止めることができなかった。カイが編んだ飾り紐の下で揺れているその牙は、『始まりの都』を護るためにキーラが変じた獣が、たった一つ、遺したもの。壁にきっちりと留め付けられた飾り紐を、タウノは鋭く見つめた。


「そういえば、ブランとはまだ勝負してなかったな」


 そのタウノの前で、不意にカイが顔を上げて部屋の入り口の方を見る。振り向くと、水の入った重そうな桶を手にした小さな影が、きょとんとした瞳をカイに向けているのが、見えた。平原を捨て、この砦に逃げ込んできた人々の一人、都の門のすぐ前で力尽きていた老齢の婦人の横で途方に暮れていたところをキーラが拾った小さな少年、ブランだ。


「え、でも、ぼくは、まだ、見習い、でも、ない、し」


 戸惑うブランの頭を、椅子から立ち上がって水桶を受け取ったカイが優しく撫でる。そのカイにキーラを再び重ね合わせ、タウノは、懐の短剣をぎゅっと、握り締めた。


 ――今夜、やらなければならない。

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