夜を守る者 1

 闇だけが広がる空と、無音の大地が、冷たい風を運んでくる。その風の中に感じた、胸が悪くなるほどの生臭さに、ブランは思わず咳込んだ。その咳の音も、ブランの身動きが立てた僅かな音も、すぐに闇の中へと消えていく。寒い。夜明けが近い所為か、ますます冷え込んでいる。震えを覚え、ブランはまとっていたマントをきつく、その細い身に巻き付けた。


 震えながら、それでも、闇に目を凝らす。今のところ、特に異常は見られない。ブランが立っている、崩れかけた城壁の歩廊の向こうにある荒野にも、城壁が守る、荒れ果てた街にも、動くものは見当たらない。吹き上げる風だけが、ブランの体温を容赦無く奪っていく。ただ、それだけ。寒さと心細さを同時に覚え、ブランは松明と警鐘が置かれた自分の守備場所を離れ、すぐ近くにある、風を避けることができる、『始まりの都』の周壁にただ一つだけの塔『東の塔』へと移動した。


 風の無い場所でマントをしっかりと身体に巻き直してから、夜の警備に戻る。荒野の反対側、街の更に向こうに、闇とは違う色をした柔らかい丘の陰を認め、ブランはゆっくりと息を吐いた。


 大陸中央部に位置する、丘と呼ぶには険しい山々で囲まれた、魔物が闊歩するだだっ広い平原。その南東部に位置する丘の『切れ目』から、人々は広大な平原へとその居住範囲を広げた。その黎明の日々に、人々は平原開拓の足掛かりとして、また平原を闊歩する魔物を平原の外へ出さぬ砦として、丘の切れ目を隠すようにこの『始まりの都』を建設した。


 『始まりの都』から平原の奥深くへと旅立った人々の手によって、平原は、穀物がたわわに実り、羊や牛が草を食む豊かな食糧地帯へと変貌を遂げた。だが、それも今は昔。時が経つにつれ、豊かであるはずの青と茶の平原は、地の底からじわじわと湧き出てきた『白い土』に覆われてしまった。白く染まった大地では草一本育たず、人々は生きる術を失った。そして同時に、一時期は形を潜めていた、夜の闇と人々の血を糧とする魔物達が再び平原を跋扈し始める。現れた凶暴な魔物に追われるように、人々は平原を見捨てた。現在、平原に残っている人々は、ほんの僅か。その僅かな人々も、跋扈する魔物から、不毛となった平原から逃れるために次々と、この都に逃げ込み、そして古い街道を辿り、丘の向こうへと去りつつ、ある。


 ブラン自身も、白い土と暗い闇に追われるまま、生まれ育った小さな村を見捨てた一人。だが、この都に辿り着くまでに、ともに村を脱出した人々は一人、また一人と、夜の闇に消え、また白い土が発する瘴気に斃れていった。子供のブランをこの都まで連れてきてくれた、生き残ったたった一人の大人であるブランの祖母も、長年の無理が祟ったのか、この都の入り口で息を引き取った。ひとりぼっちになってしまったブランを、引き取ってくれたのは。


「寒いか?」


 気遣わしげな声に、はっと顔を上げる。いつの間に現れたのか、『始まりの都』の守備部隊『夜を守る者』の隊長、カイが、ブランに笑顔を向けていた。カイの後ろには、副隊長のウルが、巨大な身体を持て余し気味にして立っている。都の城壁に設えられた歩廊を一周し、異常の有無を確認する任務から戻ってきた二人の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。


「だ、大丈夫です」


 その額に、一礼する。カイの胸元で揺れる、灰色を帯びた牙が、ブランの瞳を鋭く射た。ウルの胸元にも、カイと同じ、大きな獣のものであろう牙に飾り紐を付けた首飾りが揺れている。


 『始まりの都』が建設されてまもなく。都を守る騎士の一人が、荒野に倒れていた一頭の獣を助けた。どう見ても平原を跋扈する魔物にしか見えない大きさの、しかし他の魔物とは異なる白色の姿を持っていたその大狼に似た獣は、命を救ってくれたお礼にと、この平原に人が住む限り白き獣がこの都を守るという『盟約』を、恩人である騎士と交わし、騎士とその部下達に都を守る『力』を与えた。その騎士が率いていた部隊の末裔が、『始まりの都』の守備部隊『夜を守る者』。カイやウル、『夜を守る者』の正隊員が身に着けている、様々な色の飾り紐で飾られた牙は、白く優しい獣との盟約の証。


 保護者を亡くして途方に暮れていたブランを拾い育て、『夜を守る者』の見習い隊員にしてくれたのは、カイの母でもあった前の隊長。彼女の恩に報いるためにも、早く正式な隊員になりたい。それが、ブランの今の希望。


「立っているだけでは、やはり寒いな」


 塔から出、カイ達と入れ替わりに見回りに出る三人の正隊員を見送ったカイが、ブランを見て口の端を上げる。


「少し身体を動かそうか、ブラン」


 そう言いながら、カイは近くの胸壁に立て掛けられていた槍の一つを、ブランの方へと軽く投げた。


「もうそろそろ、正隊員に任命できると良いのだが」


 ブランが槍を受け取る前に、カイがすらりと腰の剣を抜く。教わった通りに、ブランは歩廊の石床に足を構えた。と。


「こんな小童、隊長の手を煩わせるほどでもない」


 不意に、ブランとカイの間にウルが割って入る。


「俺が相手をしてやろう」


 剣を構えたウルの、大柄な身体から発せられる迫力に、寒さとは違う震えを覚える。どこを攻撃したら良いのか、全く見当もつかない。だが。小柄なブランと同じくらいの体格しかないカイは、大柄なウルも、カイより大柄な他の三人の隊員も、剣一つで下していた。この前の模擬試合で見た、カイの剣技を脳裏に思い起こしながら、ブランは石床を蹴り、振り下ろされたウルの大剣をぎりぎりで躱し、身を捻ったままウルの首筋に槍を叩き込んだ。


「なっ」


 ウルの狼狽の声が、暗い空間に響く。首筋への攻撃はさすがに躱されたが、それでも、ウルの頬には一筋の血の跡があった。


「そこまでだ」


 ブランを睨むウルの前に、カイの影が舞う。


「最近訓練サボってるのか、ウル」


「なわけないだろっ!」


 ウルに向かって軽口を叩いてから、カイはおもむろにブランの方へと向き直った。


「強くなったな、ブラン」


 カイの小さな手が、ブランの絡まった髪の毛をわしわしと撫でる。隊長に、褒められた。頬が熱くなり、ブランはカイを見上げてにこりと笑った。


 その時。暗闇だけだった空が、大きく動く。


「魔鴉!」


 ブランが叫ぶより前に、カイの剣が、城壁の上に姿を見せた黒い大鴉を無造作な動きで叩き切った。


「鐘を鳴らせっ!」


 その言葉を残し、歩廊の石床を蹴ったカイが夜空へと飛び上がる。もう一体の大鴉をも一撃で叩き切ったカイは、その大きな翼とともに落ち、ふわりと地面へと着地した。


「魔狼もかっ!」


 カイが着地した、都へ入る大門前の荒れ地を睨み、ウルが叫ぶ。確かに、闇に覆われた大地を更に暗く覆い尽くすかのように、大きな影が複数蠢いているのが、矢狭間からでもはっきりと見える。地上へ向かうウルの急いた足音を聞きながら、ブランは右手の槍を空に羽ばたく大鴉の方へ投げ、そして見回りに行った他の三人の隊員を呼び戻すために力一杯鐘を鳴らした。


「カイっ!」


 不意に響いた、取り乱したウルの叫び声に、胸壁の狭間から身を乗り出す。そのブランの瞳に映ったのは、ウルよりも大きい、闇色をした狼三匹に横と背後から肩と腕と足を噛まれ、地面に横様に倒れ伏すカイ。


「隊長!」


 思わず、叫ぶ。


 鐘の音が聞こえていないのか、『夜を守る者』に所属する三人の正隊員達が戻ってくる気配は無い。第一、今の『夜を守る者』の隊員は、見習いであるブランを含めても六人しかいない。どう、すれば。起きあがろうとしたカイを庇うウルの横をすり抜けた狼の影にカイの身体が消えるのを、ブランは呆然と見つめることしかできなかった。


 と、その時。


 剣を捨てたウルが、胸に揺れる牙を掴む。次の瞬間、ウルが立っていた場所には、白い毛を風に揺らす、狼に似た巨大な獣が佇んでいた。


「なっ」


 戸惑いの声を上げるブランの目の前で、ウルが変じた白い獣が次々と闇色の大狼を食らう。たちまちにして、闇色の魔物の姿はブランの前から消えた。そして。薄明が、白い土で覆われた不毛の荒野を淡く照らす。光の眩しさに目を瞬かせたブランが次に目にしたのは、荒野に転がる一対の巨大な牙と、その牙を見つめて咽ぶ、血の朱に染まったカイの姿。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る