過ぎる想いは 2

 太陽が沈む前に何とか、目的地である無人の塔に辿り着く。


 崩れかけた塔の、それでも言い伝え通りきっちりと積み上げられた、『始まりの都』と同じ色をした石壁を指で触って確かめると、カイは塔の中に入り、安全だと思う石壁の隅に腰を下ろした。


 くすねてきた干し肉とビスケット、そして塔の中にある井戸から汲み上げたまだ悪くなっていない水を口にしてから、鞄の中から小さく折り畳まれた紙を取り出す。母が手紙や報告書を書くときに使う羊皮紙とは異なる、何度も広げまた折り曲げられた跡のある紙を破らないようにそろそろと広げてから、カイは崩れた天井の向こうにある夜空を見上げた。道標も、道すらも失ってしまった平原を歩くために用いる、星の位置から目的地への方向を割り出す『星図付地図』。『始まりの都』を魔物の襲撃から守る『夜を守る者』の隊長を務める、この世界のことなら何でも知っている母が唯一、使い方を教えてくれなかったもの。その理由は、分かっている。まだまだ先のことだが、母の息子として、カイもいつかは『夜を守る者』になる。しかし一旦『夜を守る者』の正隊員になってしまったら、病気や怪我などにより任務の遂行ができなくなった場合を除き、正隊員の証である、優しき獣との盟約によって得た『牙』を隊長に返すことはできない。まして母の跡を継いで『夜を守る者』の隊長になってしまったら、『始まりの都』にずっと縛られてしまう。それが嫌だから、家出した。星図と夜空を確かめながら、カイは深く息を吐いた。『夜を守る者』の責務は、嫌いではない。人々を魔物から守ることは、重要で崇高な任務。だが。世界を、『始まりの都』以外の場所も、見てみたい。その想いも、確かに、カイの胸にある。


 平原を見て回ったら、『始まりの都』の背後にある丘を越えて、母の目を盗んで読んだ本の中に書いてあった『森』や『草原』を見に行こう。丘の更に東にあるという、『鴎』が飛び交う『海』も、見てみたい。そこまで考えたカイはそっと鞄を引き寄せ、昼間拾った平たい物体を取り出した。


 片手に余るその物体をそっと持ち上げ、星明かりに透かしてみる。夜空が見えるほどに薄い、それでも石のように固い板。刻まれている数え切れないほどの同心円に、カイは感嘆の息を吐いた。綺麗だ。それしか言えない。本の中の『魚』の項に描いてあった『鱗』というものに似ている。あの異形は『魚』だったのだろうか? 僅かな背筋の震えに、カイはゆっくりと首を横に振った。『魚』は『海』に棲むと、母も言っていた。平原の空に浮かんでいるものではない。カイがそこまで考えた、まさにその時。


「え……!」


 突然目の前に現れた、昼間と同じ異形に、絶句する。『魚』と同じ姿形の、塔の壁いっぱいに広がったその怪物は、カイをその熱の無い瞳でじろりと睨むと、再び唐突にその姿を消した。


〈な、何……?〉


 冷たい汗が、背中を流れ落ちる。それでも、恐怖とともに心を過ぎった感情に、カイは静かに俯いた。あの『魚』は確かに、……泣いていた。優しき獣との盟約で得た力で『始まりの都』を守り、朝日に消えた隊員達が残した牙を葬る母と同じように。母が泣く姿を見るのが嫌だから、自分も同じように泣くのが嫌だから、『夜を守る者』の隊長にはなりたくない。それが、カイを支配する感情。


 『魚』が見ていた、脇に置いた剣帯をそっと拾い上げる。その昔、平原の開拓が緒についた頃、丘の向こうからやってきた開拓者の一人が織り方を教えてくれた、魔物を倒す剣を吊すための、『夜を守る者』の印である帯。その帯の、『始まりの都』の城壁と同じ色をした、黒に近い蒼の面と僅かな白の線に、カイは一人、頷いた。あんな悲しい瞳は、見たくない。……誰も、悲しませない。強い意志が全身を貫く。母が悲しむのを見たくないのなら、誰も、自分を含めて誰も、『獣』になることなく『始まりの都』を守ることができるように、カイ自身が強くなれば良い。もう一度強く頷くと、カイは荷物をまとめて立ち上がった。帰ろう。帰って、皆を守る。誰も悲しませない。


 立ち上がったカイの爪先が、何か固いものを蹴る。拾い上げた、カイの小さな手では持ちきれない、もう一枚の『鱗』を、カイは鞄の中に無造作に突っ込んだ。

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