誰も知らない声 4
再び、夜がやって来る。
だが、カイは目覚める気配すら示さなかった。
「まあ、仕方無いな」
城壁にただ一つ建つ塔の最上階にある、黒い布を張り巡らせた『夜を守る者』隊長専用の寝室。その部屋の、黒い帳に囲まれたベッドで眠るカイの熱に浮かされた額にそっと手を触れたタウノが吐いた息を、ウルは黙って聞いていた。昨夜タウノとウルが発見した小さな影を退治する前にも、カイは塔から少し離れた、平原側に開く正門を襲った数匹の魔狼を剣一つで退治していたらしい。一夜に何体も魔物を退治すれば、魔物が発する瘴気に当てられて倒れるのは当然。いつものことながら、無茶をする。夜間の見回りに出るために部屋を出る時にタウノが発した溜め息に、ウルも唸って頷いた。
何故カイは、一人で無茶をするのだろう? 苦しげに息を吐くカイの頬を撫でてから、ベッドの反対側の壁を見る。その壁の裏側、『夜を守る者』隊長の執務室の壁には、飾り紐で飾られた『夜を守る者』の正隊員の証である、遠い昔に盟約を結んだ優しき獣からもらったという白い牙が留めつけられている。その数は、確か十五。一つは、カイの母であり前の『夜を守る者』の隊長であったキーラが遺したもの。そして残り十四は、病気や怪我、加齢などで隊を去った者達のもの。『夜を守る者』の隊長になってからずっと、カイは新しい正隊員を任命していない。カイをこの部屋に運んだ時に、タウノは確かにそう、言っていた。前の隊長キーラが任命した残り十六人の正隊員達と、ウルのように罪を償うという名目でこの場所に送られてくるならず者からなる見習い隊員達だけで、カイはあの強大な魔物達と対峙している。……殆ど、一人で。それで良いのだろうか? 聞こえるはずのない風の音に聞こえるはずのない咽び声が混じった気がして、ウルは強く首を横に振った。
と。
「……まさか」
前触れもなく毛布を蹴って起きあがったカイに瞠目する。ウルが止めるよりも素早く、カイはベッド側に置かれていた自分の剣を掴んで部屋を飛び出し、執務室から屋上へと続く階段を駆け上っていた。
「カイっ! 待てって!」
そのカイの行動の唐突さに驚く前に、カイの後を追って階段を駆け上がる。塔の屋上で目にしたものに、ウルは全身の震えを止めることができなかった。
「なっ……」
高いはずの塔より高い場所に、どす黒い色をした巨大な人の顔が見える。呆然としてしまったウルの前で、空間を薙いだ黒い腕のようなものをカイが瞬時に叩き斬った。
「逃げろっ、ウルっ!」
再び襲ってきた腕を叩き斬ったカイがウルの方を見ずに叫ぶ。逃げるわけにはいかない。屋上に常備してある弓矢を掴むと、ウルはこちらを見つめているような気がする影の眼窩に見える場所に向かって矢を放った。次の瞬間。矢が影の中に消えると同時に、腕のようなものが二方向からウルを襲う。
「ウルっ!」
カイに突き飛ばされ、石床で腹を打ったウルが見たのは、無防備なカイを貫いた槍のような影。力を失ったカイの身体は、影が持つ別の腕に捕らえられ、塔の向こうの巨大な影の中に消えた。
「カイっ!」
石床に広がる黒い血に、全身が戦慄く。カイが、ウルがどうしても打ち倒せなかったあの少年が、こんなにも、あっけなく。呆然と、冷たい石床に、ウルは膝をついた。
その時。ウルの眼前を、白い影が走る。
「なっ……!」
あれは、まさか。ウルが立ち上がる前に、白い獣は塔屋上の胸壁を蹴り、カイを飲み込んで満足したのか塔から離れかけたどす黒い影の首筋にその鋭い牙を突き立てた。複数の腕を伸ばして白い獣を追い払おうとする影を翻弄しながら、白い獣は素早く次々と、震える影をその牙と爪で切り裂いていく。その、強く美しい獣の戦いを、ウルは呆然と、見つめていた。
幾許もなく、どす黒かった影はその黒さを失う。その時になって初めて、ウルは再び、風の中の咽び泣きを聞いた。
次の瞬間。塔の胸壁に降り立った白い獣がくわえていた小さな影に、はっとして獣の方へと走り寄る。
「カイっ!」
獣から受け取ったカイの身体は冷たく、その華奢な胸は赤黒く染まっていた。
悲しみが、胸を貫く。この場所を守るために一生懸命だった、こんな小さな存在を、……死なせてしまった。瞳の熱に、ウルは思わず瞼を閉じた。
その時。
「……タウノ」
消えそうな声が、耳を打つ。瞼を上げると、カイの頬に鼻面を寄せた獣の方へと、カイが動かない腕を伸ばしていた。
「何故? 何故、……変身を」
悲痛に響くカイの言葉に、目の前の獣を見直す。『夜を守る者』達が身に着ける、優しき獣との盟約の証である牙。その牙には、一夜だけ、優しき獣と同じ姿と力を持つものに変ずる『力』があるという。ウルの目の前にいるその獣は、おそらく、あの強大な魔物からこの『始まりの都』を守るために、『夜を守る者』隊員の誰かが、カイの言葉を信じるなら、おそらく、タウノが変じた、姿。
閉じたカイの瞳から流れ落ちる涙を、白き獣がその舌で拭う。次の瞬間、朝の最初の光が塔を照らすと同時に、白き獣の姿は光となって消えた。
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