誰も知らない声 5

 強大な魔物の襲撃から五日経ってもなお、カイは生死の境を彷徨っていた。


「大丈夫、だよね、隊長」


 昼も夜もずっと、カイが寝かされている塔の最上階をうろついているブランの震える唇を、無言で見下ろす。そしてウルは、カイと同じように、ブランの手入れがされていない髪をそっと撫でた。


「大丈夫さ」


 確かに、タウノが変じた獣から受け取ったカイの身体は、生きているとは思えないほど冷たかった。だが今は、その熱をほぼ取り戻している。後は、意識を取り戻してくれさえすれば。医術の心得のある隊員の言葉を思い出しながら、ウルは一人頷いた。そして。


「寝ないと大きくなれないぞ」


 夜更けだというのにまだぐずぐずとカイの寝室に居座ろうとするブランに、できるだけ軽く言葉を掛ける。


「『夜を守る者』になりたいんだろ? カイより大きくならないと任命できないってカイも言ってただろ」


「見習いのウルに言われたくない」


 いつになく生意気な口を利いたブランは、それでもカイの言葉を思い出したのか、しょげた顔で部屋を去る。カイと二人きりになり、ウルはカイの、痩けてもまだ女性に見える青白い頬に指を這わせた。


 その時。


「……あ」


 消え入りそうな声とともに、カイが目を覚ます。再び閉じそうになったその瞳の光の確かさに、ウルはほっと息を吐いた。


 そのカイの瞳が、ウルの横を彷徨って止まる。カイが見つめる、ベッド横の腰棚に置かれたものに、ウルは思わず、唇を震わせたカイから目を逸らした。優しき獣との盟約により一夜だけの獣に変じた者は、朝日にその姿を溶かす。残るのは、一対の牙のみ。その牙の片方を葬り、もう片方を飾り紐で飾るのが、『夜を守る者』の隊長たるカイの務め。おそらく、タウノが残した牙をも、カイは執務室の壁に飾るのだろう。そう、考えるより先に、ウルはつと右手を伸ばし、カイが掴んだタウノの牙の片方を取り上げた。


「この牙を、俺にくれ」


 カイが目を覚ましたら言おうと思っていた言葉を、口にする。『夜を守る者』の正式な隊員になりたいわけではない。ただ、……この強く儚い存在を、守りたい。ただ、それだけ。


「だめ」


 そしてウルの予想通り、カイはウルが持つ牙の方へその細い腕を伸ばした。


「誰にも、変身してほしくない」


 ウルの推測通りのカイの本音が、仄暗い空間に響く。牙を持つウルの右手を掴んだカイの小さな手に、ウルは自分の大きな左手を乗せた。


「大丈夫。変身は、しない」


 そして優しい嘘をつく。


「おまえを手伝ってやりたい。それだけだ」


「本当に?」


 ウルを見上げたカイの、幼い瞳に強く頷く。


「本当に?」


 もう一度念を押すカイに、ウルはにやりと口の端を上げた。


 無言の時が、流れる。


「だったら」


 飾り紐を、作るから。小さな声でそう言ったカイに頷くと、ウルはタウノの牙を持ったまま執務室に向かった。


 隊長専用の広い机の引き出しから、古ぼけた色をした糸の束を持って寝室へと戻る。タウノの牙の片方を掴んだまま、カイは安らかな眠りへと落ちていた。

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