夜を守る者 3

 いつもと同じ、何も見えない闇に、目を凝らす。


 昼に雨が降った所為か、今日の風には、生臭さが無い。凍るような夜の空気を吸い込みながら、ブランはほっと息を吐いた。暗い夜も、もうすぐ終わる。


 ブランが正式に『始まりの都』の守備部隊『夜を守る者』の隊員となってから三年余り。その間に、『夜を守る者』の隊員はブランと隊長のカイ、たった二人にまで減っていた。他の隊員達は、様々な理由により、惜しまれながら丘の向こうへと去っていった。平原に残っていた人々も全て、動ける者は丘の向こうへと行ってしまった。平原にはもう、人の姿は無い。この都に残る僅かな人々も、明日の朝、ここを去る。ブランと、カイも。


 寂しさは、確かに、胸の中にある。そっと、汚れた袖で顔を拭う。しかしながら。もう、平原にも、都にも、誰もいない。守る者がいなくなってしまったのだから、『夜を守る者』も、解散するのが、当然。


「夜明けが、近いな」


 気を緩めたブランの耳に、明るい声が響く。


「少し寝ておいた方が良い」


 ブランの斜め後ろに立った、『夜を守る者』の隊長であるカイはそう言って、ブランと同じように、都の外に広がる暗闇を見つめ、そして反対側、都の中で一夜を明かす引揚隊の焚き火の炎を見やった。


「今日はかなり歩く。あの者達は、夕方には『丘』に辿り着きたいと言っていた」


「しかし、ここを守る仕事を放っておくわけには」


 ブランの当たり前の逡巡に、カイが微笑む。


「私が、見ておく」


 そう言って、カイは焚き火の横に置かれたぼろぼろの荷馬車を指差し、にやりと笑った。


「出発後に、黙ってあそこに潜り込んで眠ればいい」


「そう、ですか」


 平原に広がる闇を再び見つめ始めたカイを、そっと見やる。眠いのは、事実。ここはカイの言葉に甘えた方が良いだろう。カイなら、一人で都を守ることは朝飯前。ウルが獣に変じてからこれまで、都を襲ってきた無数の魔物達を、カイは自身の剣一つで殲滅し続けていた。胸に揺れる牙に手を伸ばしたことは、ブランの知る限り一度も、無い。『夜を守る者』の隊員がブランとカイ、たった二人になってしまってからずっと、カイは殆ど一人で、人の姿のまま、このぼろぼろの都を守っている。眠気覚ましに歩廊を巡るつもりなのか、ブランから離れたカイの背が視界から消えると同時に、ブランは城壁から降りるために塔へと向かった。


 その時。ブランの視界端を、重い影が過ぎる。振り向いたブランの瞳に映ったのは、今にも城壁を、都全体を飲み込む勢いの、塔より高い闇の壁。止めなくては。自身の職務を思い出し、剣を抜く。しかし、剣一つでこの重苦しい闇を止めることができるのか? いや、止めなければならない。それが、『始まりの街』を守る『夜を守る者』の、責務。それを、果たすためには。


 胸で揺れる、大振りの牙を、左手でそっと掴む。だが次の瞬間、強い衝撃とともに、掴んでいたはずの牙は歩廊の石床に転がった。


「隊長!」


 ブランと黒い影の間に立ち塞がった、小柄な影に、声を上げる。ブランの左手を叩いた、カイの右腕の震えにブランが気付く前に、カイの姿は白い大狼の姿に変じた。


 獣の彷徨が、夜を震わせる。飛び上がり、身を捩った白い獣が闇の壁をずたずたに切り裂く様を、ブランはただ呆然と、見つめていた。カイが変じた、白い獣は、都に襲いかかる闇をいとも簡単に駆逐する。幾許も経つことなく、夜より暗い闇の壁は都の周りから消えた。そして。薄明が、白い大地の上に降り立った白い獣の姿を輝かせる。次の瞬間、大地を薄赤く染めた陽の光が、獣の姿を淡く溶かした。


「隊長!」


 叫ぶブランの視界に映ったのは、大地に転がる一対の牙。かつてはカイであったその牙に、ブランの視界はたちまちにして、霞んだ。




 都を去る前に、もう一度、塔へと登る。


 『夜を守る者』を統べる、代々の隊長が使っていた部屋の壁に飾られていた、歯牙に飾り紐を取り付けた首飾りは全て、跡形も無く消え去っていた。その事実を確かめ、息を吐く。ブランが身に着けていた歯牙も、既に消えて無くなっている。カイが遺した、一対の牙も、今ブランの手の中にあるのは、その片方だけ。涙を止めるために、ブランは固く目を閉じた。……全てが、終わったのだ。都は消え去り、優しき獣との盟約は果たされた。ただ、それだけ。


 古びた大机の上に、カイが遺した牙を置く。この城壁や塔が跡形も無く崩れ去り、白い土と暗い闇に全てが飲み込まれたとしても、高所にあるこの部屋なら、風と雨がいつか、土と闇からこの牙を取り戻してくれるだろう。この牙を見つけた誰かが、かつてこの地に暮らしていた人々のことを、微かでも想ってくれるならば、それで、……良い。僅かな灰色に染まった白い牙をそっと撫でてから、ブランは静かに、踵を返した。

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