あなたが聴かない、歌を
遠く響く喧噪に、大きく息を吐く。
闇に沈んだ都の向こうに光る無数の小さな灯に、ヤンは目を細め、そして所在無げに腕の中のハープに手を乗せた。ピンと張った弦を弾く指が、小さな旋律を奏でる。胸の中にある靄の通りにでたらめな音を幾つか奏でると、ヤンは再び息を吐き、小さなハープを、ヤンが凭れ掛かっている蒼みを帯びた黒色の塔の壁に立てかけた。そしてもう一度、闇と灯の向こうを見る。ヤンが凭れ掛かっているのと同じ影を持つ、この『始まりの都』を守る塔の姿に、ヤンは首を横に振った。確かに、都は繁栄と平穏の中にある。だが、……胸の中にあるこの感情は、何なのだろうか?
と、その時。
「吟遊詩人が宴に出ていないとは」
笑い声とともに、ヤンの目の前に大柄な影が立つ。
「リトヴァこそ」
その影の、短く切られた奔放な髪に、ヤンは静かに微笑んだ。
「『夜を守る者』の隊長なんだから、主賓をもてなさないと」
「それは、私の職務に無い」
おそらく宴を抜け出してきたのだろう、汚れの無い上着にマントの正装が、闇の中でもはっきりと見える。『夜を守る者』を示す濃い蒼と白の縞模様の剣帯と、リトヴァの豊かな胸元で揺れる大振りの牙に、ヤンは今度ははっきりと口の端を上げた。ヤンの父は、この男勝りの従姉に女性用のドレスを着せることができなかったらしい。良い気味だ。自分の父親を嘲うと、ヤンは再びハープを手に取った。
「全く、叔父上にも困ったものだ」
ヤンと同じことを考えていたのだろう、細い喧噪が響く灯の方を見やり、リトヴァが肩を竦める。
「こともあろうに私などを、帝に差し出そうとするとは」
先祖からの職務を守り続け、剣の才能を見せたリトヴァを『夜を守る者』の一員にしたリトヴァの父とは異なり、ヤンの父は、あわよくば平原を去り、帝都で権力を持ちたいという野望を持っている。保護者を亡くし、自身の庇護下にあると認識しているリトヴァを、繁栄した自身の領土を確かめるためにこの『始まりの都』を訪れた帝に差し出し、野望の礎にすることなど、あの人にとっては手段の一つでしかないのだろう。リトヴァの方も、ヤンの父の謀略をすっかり把握しているらしい。リトヴァではなく、小柄で淑やかな、帝が気に入りそうな者を差し出した方が良いとは思わないのだろうか? リトヴァの言葉に、ヤンはリトヴァに知られないように首を横に振った。リトヴァは、美しい。平原を開拓する人々を守るために作られたこの『始まりの都』を守る、どちらかというと荒くれ者が多い『夜を守る者』達を指揮する姿に、ヤンは心からの尊敬の念を抱いていた。いつか、自分の拙い技で、彼女のことを歌にしたい。それが、ヤンの密かな想い。
ヤンが奏でる小さな音が、遠くの喧噪を打ち消す。
「……平原の魔物が勢いを取り戻しつつあるのは、本当のことか、ヤン?」
不意に発せられた静かな言葉に、ヤンははっと顔を上げた。
帝国の西、丘と呼ぶにはあまりにも峻険な山々の向こうに広がる豊饒の地。平原と呼ばれ続けてきたこの地が未開のままであった理由は、夜の闇に紛れて人を喰うという魔物が大勢、跋扈していたから。だが、時の帝から平原開拓を命じられた騎士リクハルドはその困難を乗り越え、今では平原は、帝国に農作物を供給する最重要地点となっている。その偉業の達成には、リクハルドの孫娘ライナが助けた優しき獣との盟約が一役買っている。ライナを守って死んだその獣の血で『始まりの都』の城壁は作られ、その獣の力で、『始まりの都』とその周辺は魔物の襲撃から守られているという。ヤンの母から聞いた小さな歌を、ヤンはハープに乗せた。都の城壁が持つ蒼みを帯びた黒の色、『夜を守る者』の印であるリトヴァの剣帯と同じ色は、魔物の魔力の証。その魔物の力が、弱まっているのだろうか? 最近、『始まりの都』から遠く離れた、どこか白色を帯びた村々で、闇の色をした魔物が多数目撃されているらしい。いや。瞼の裏を過ぎった光景に、ハープを爪弾くヤンの手は凍った。ヤンの本来の職務は、平原を開拓している人々を守るために平原中を旅すること。やはりこれもヤンとリトヴァの先祖リクハルドが創設した『翼持つ者』の一員として、ヤンは『始まりの都』から離れた場所を巡っている。その場所で見たのは、『始まりの都』よりも高い、壁のような闇色の魔物が一瞬で、夜の闇の中にあった白みを帯びた開拓村を飲み込んだ、その光景。
都の外に広がる闇を見つめ続けるリトヴァに、頷くことしかできない。そのヤンに、リトヴァは鮮やかな微笑みを返した。
その時。
「あれは……!」
息を飲むリトヴァの前で、夜の闇が急に濃くなる。跳ねるように立ち上がり、庇うようにリトヴァを抱き締めたヤンの後ろで、先刻までヤンが背を預けていた塔が闇に飲まれた。
「あれが、……魔物か?」
震える声を出すリトヴァに、頷く。とにかく、ここは危険だ。逃げないと。そう判断したヤンの腕は、しかし容易く外された。
どうにかしないと。しかし、……どうすれば。ゆっくりと都の中に侵入する闇色を見つめ、リトヴァが唇を噛む。『始まりの都』を守るのが、リトヴァの職務。リトヴァの胸元で揺れた、優しき獣との盟約を示す牙の白に、ヤンは息を吐いた。『夜を守る者』の初代隊長ライナに手渡された、優しき獣の三十二の牙の一つ。だがその牙が何のためにあるのか、ヤンも知らない。平原で歌われる歌の中にも、無い。
「……!」
不意に、無声の気合いが、耳に響く、ヤンが思いを巡らせている間に、リトヴァは腰の剣を抜くなり都に侵入する闇の中へとその身を躍らせていた。
「リトヴァっ!」
無茶だっ! 思わず一歩、前に出る。しかし次の瞬間、闇の中から現れた白い獣に、ヤンの足は凍り付いた。あの、獣は。侵入した、形の無い魔物をその鋭い牙で引き裂く獣を、ヤンは呆然と見つめた。
そして。薄明が、夜の闇を追い払う。ヤンの目の前にあったのは、崩れ果てた蒼い塔の残骸と、僅かな光に毛を揺らす白き獣。リトヴァは、どこへ? 目を凝らすヤンが次に目にしたのは、朝日を浴びて溶ける獣の姿と、その獣が遺した一対の牙。その牙で、全てが繋がる。優しき獣がライナに、『夜を守る者』達に与えたのは、一夜だけの、自分と同じ姿と力。その『力』で以て都を守り、朝日に消える、運命。
目の前が、霞む。
いつか絶対、リトヴァの、あの人の歌を作ろう。リトヴァが変じた白き獣の神々しさと、闇の中で闇を喰らうおぞましくも美しい姿を思い起こし、ヤンは石畳に膝をついた。
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