白の獣

 星闇の空から、白い影が降りてくる。


 ライナに一瞬だけまとわりつき、しかしすぐにライナから距離を置いた暗がりに佇んだ大柄な四つ足の影に、ライナはふっと口の端を上げた。……『彼』の気持ちは、分かるつもりだ。


 白い魔物から、背後に置かれた、石灰と砂とで岩を固めた『壁』に視線を移す。横にいる魔物の色とは異なる、どこか温かい白に、ライナは小さく頷いた。昼間積み上げた、まだライナの胸までの高さしかない『壁』はまだ、毀たれてはいない。しかし。『壁』の向かい側、夜の闇にすっぽりと包まれた、誰も居ないはずの『平原』に蠢く気配を覚え、ライナは震えとともに平原を見つめた。大丈夫。まだ、……平原には誰も居ない。


 闇の中で音も無く揺れる草の影を確かめてから、もう一度、白い『壁』を、そして壁の向こうを見つめる。星明かりだけでは、平原と『帝国』とを隔てている、丘と呼ぶには峻険な山々は、見えない。しかしそこに『ある』ことは、分かっている。見透かすように、ライナは闇を見つめ続けた。


 ライナの祖父、帝国の騎士であったリクハルドが属していた一族は、讒言によってその殆どが弑された。死の刃を逃れた祖父は、保護者の手で慎重に隠されていて助かった孫のライナと、リクハルドを慕う家臣とを引き連れて丘を越え、夜の闇に紛れて人を喰らうという魔物が支配する平原へと降り立った。一族の血を絶やさないために、そして、勲功によって一族の名誉を回復するために。帝国の西方に位置するこの平原は、開拓すれば帝国の人民を養って余りある穀倉地帯になる。一族が伝え持つ『力』で以て平原の魔物を制し、平原を人間のものにし、帝国に捧げればきっと帝国に、一族がかつて就いていた栄光に、戻ることができる。それが、今は病に伏している祖父リクハルドの願い。それを、叶えるには。もう一度、揺れる草の影しか見えない平原を見つめ、ライナは唇を噛み締めた。ライナの背後にある『壁』を完成させ、平原開拓の足がかりとなる砦を作り、守る。それが、現在のライナの、職務。


 不意に、きっちりと固定されているはずの岩が崩れ落ちる音が、闇に響く。小さな音。ここから離れた場所が崩れた。音の出所を確かめる前に、ライナの足は地面を蹴った。壁沿いに走ればすぐに、崩れた箇所が星明かりに映る。べっとりとした不定形の黒い影が、積み上げたばかりの壁にまとわりついている。その影を認めるや否や、ライナは走りながら抜いていた腰の剣を影に向かって無造作に突き刺した。


 刃を受けた黒い影が、震えて消える。まだ小さい、力が少ない魔物だ。良かった。剣を通して腕に伝わってきた冷たい震えを、ライナは腕を振ることでごまかした。


 祖父リクハルドとライナ達が平原に辿り着き、砦を作ろうとした時からずっと、平原に潜む魔物達は、夜になると必ず、砦の基礎となる『壁』を壊しにかかってくる。むざむざと『壁』を壊されるわけにはいかない。だからライナは毎夜、『壁』の見張りに立つ。これまでに、何体の魔物をこの剣で屠っただろうか? 闇の中、崩れた箇所を確認しながら、ライナは知らず知らずの内に溜息にも似た息を吐いていた。


 と、その時。不意に、白い影がライナの目の前を過ぎる。


「あっ!」


 ライナが声を出した時には既に、ライナの背後にいた烏に似た影が、白い四つ足の獣の口元に消えていた。白い影の足下にも、黒い翼が三対、散っている。


「ありがとう」


 ライナの頭よりも上にある、白い獣の灰色の瞳に、頭を下げる。


 この獣は、ライナが祖父とともに平原に降り立ったその日に、草の陰に小さくうずくまっていたのをライナが拾い育てたもの。魔物だと、祖父はライナを諌めたが、ライナは育てると言い張った。こんな温かいものが、人を喰らう魔物であるはずが無い。たとえ魔物であっても、……この温かいものを手放したくない。黒い影を飲み込み、ライナの頬に鼻を擦り付けた白い影の温かさに、ライナは小さく笑い声を立てた。だが、その笑い声が白い影の気に障ったらしい。白の獣は唐突にライナから身を離すと、一跳びでライナの前から消えた。


 消えた獣の気配を探りながら、小さく首を横に振る。「名前を付けるな」と祖父に言われたので、抱き締めるように育てた白の獣に名前は無い。それでも、成長した『彼』は、ライナを助けてくれる。……同族を弑してまで。胸に過ぎった空虚を、ライナは強く首を横に振ることで追い出した。


 次の瞬間。耳を劈く大音声に、無意識に大地を強く蹴る。『壁』から十分遠くに跳び離れたライナの前で、石灰でしっかりと固定された岩塊は殊更緩やかに、跡形も無く崩れ去った。


「なっ……!」


 惨状に、声も出ない。もうもうと上がる土煙の中に見えたのは、不定形のどす黒い影。ライナ達が苦労して積み上げた『壁』を馬鹿にするかのように蠢く、これまでにライナが目にしたどの影よりも格段に大きい、影。この影を、倒せるだろうか? 一瞬で冷たくなった身体を叱咤し、ライナはよろよろと手の中の剣を持ち上げた。倒す倒せないの問題ではない。……倒さなければ。


 地面を弱く蹴り、土煙の中に飛び込む。しかし次にライナが感じたのは、凍るような闇。魔物に、飲み込まれた? 何とかそれだけ、思考する。この闇から逃れなければ。しかしどんなに叱咤しても足が動いてくれない。頬に零れた熱を、ライナは呆然と感じていた。


 その時。どす黒かったライナの視界に、白が混じる。


「あ……」


 声を出す前に、ライナの身体は普段の熱を取り戻した。これなら。小さくなったどす黒い影に、軽くなった剣を突き刺す。だが。柄だけしか見えない自分の剣に、ライナの思考は止まった。何時、折れた? この剣では、魔物を退治することができない。さまよう視線に映るのは、闇の中で白い影がどす黒い影を駆逐する、どこか気高い姿。


 やっと昇った朝日とともに、どす黒い影は四散する。残ったのは、極限まで疲労したライナと、白の身体のあちこちを蒼く染めた、地面に長々と横たわる、影。


「……!」


 叫び声すら、出てこない。柄だけになってしまった剣が地面に落ちる音を遠くに聞きながら、ライナは地面に頽れた。


 苦しげに息を吐く白の影に、手を伸ばす。掌の下で震える白の、これまでに感じたことのない冷たさに、ライナは慟哭を飲み込んだ。本当は、分かっていた。この平原は、……魔物達のもの。ライナ達の方こそ、魔物達が穏やかに暮らしていた地を奪う、侵略者。それでも。冷たい影を撫でながら、強く首を横に振る。それでも、いつか全てが無に帰すとしても、今は、この地で、生き延びるしかない。……生き延びたい。だから。白の獣の、熱を感じない柔らかな腹に顔を埋めると、ライナは最期のために残しておいた短剣を抜き、獣の白い首筋を蒼に染めた。




 白の獣の、蒼黒い血を、『壁』を固める石灰に混ぜる。魔物の血に染まった『壁』は、どす黒い魔物を全く寄せ付けなかった。


 更に、白の獣の亡骸から取り外した三十二の牙を、蒼黒く染まった城壁に囲まれた砦を守る者達に与える。いつか、全てが終わるとき、それでも守りたい何かを、守るために、この牙は何かを成してくれるだろう。……強い想いを、犠牲にして。自身の『力』の中に感じた、鈍い痛みを、ライナはそっと心の裡に隠した。

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夜を守る者達 風城国子智 @sxisato

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