標無くして

 崩れかけた家屋の間を、押し黙ったまま歩く。


 暗く湿った路地から一足で開けた灰色の空間に、アルトは大きく息を吐いた。


 『始まりの都』の西の端、人の姿が全く見えない空虚な空間にあるのは、墓地。かつてこの都に暮らしていた人々と、平原に入植した人々を脅かす『白い土』と『暗い闇』に追われ、この都の近くで力尽きた者達を葬る、場所。その、雑草すら見えない土ばかりの更地に頭を下げると、アルトは墓標の無い墓地を突っ切り、目的地――墓地の端、城壁近くにある、崩れた石壁が見える場所――へと向かった。


 風雨によって和らげられた、それでも城壁と同じ蒼黒さを持つ破壊の跡を見上げてから、その側の地面に目を落とす。かつてここには、『始まりの都』の東側にある、この街の守備部隊『夜を守る者』の隊長が使っている塔と同じ高さと姿の塔が建っていた。だが、『始まりの都』に初めて襲いかかった強大な魔物によってその塔は崩れ、そして『始まりの都』を魔物から守っていた優しき獣の力は毀たれた。それからずっと、崩れた塔の側であるこの場所は、優しき獣との盟約によって街を守る力を得た『夜を守る者』達が、魔物を駆逐するために一夜白き獣に変貌し、その後に遺された一対の牙の片方を葬る場所となっている。アルトの親友であり、かつては平原に暮らす人々を守る『翼持つ者』としてともに平原を旅していた『夜を守る者』の隊長ヴァロも、平原から逃れようとする人々を助けるためにアルトがこの街を離れている間に白き獣と化し、この場所に葬られた。そのことをアルトが知ったのは、昨夜、平原から逃れる人々を守るようにしてこの城塞都市に戻って来た後。


 涙は、出ない。あるのは、空しさのみ。俯いて首を強く横に振り、アルトは墓地に背を向けた。


 左肩でマントを留める、羽根を模した銀色の留め金を右手でなぞる。『夜を守る者』の隊長を継いでいたアルトの従妹と結婚し、『翼持つ者』から『夜を守る者』へ移るとヴァロが告げた時、アルトは声を荒らげて反対した。『夜を守る者』は、この城塞都市に縛られる。平原を自由に旅し、人々を助けることができなくなるんだぞ。アルトの怒りに微笑んだヴァロの、端正な横顔が、アルトの脳裏を過ぎった。


「『夜を守る者』も『翼持つ者』も、同じだ」


 そのヴァロがアルトに言った、強い言葉も。


 確かに、ヴァロの言う通りなのかもしれない。頷きかけて再び首を横に振る。俺は、……嫌だ。自由に旅ができないことも、たとえ人々を守るためとはいえ、自身が魔物と化してしまうことも。最初はアルトに来ていた、従妹との結婚を断ったのも、それが、理由。


 不意に、地面が暗くなる。見上げた空には、真鍮色の太陽を覆うほどの翼を持つ影が悠然と、平原と他の地域とを隔てる『丘』のある東側に頭を向けていた。




 次の朝、夜が明けてすぐ。予定通り、平原を去ろうとする人々の手助けをするために、『翼持つ者』の一団を率いて城門を出る。都の方を振り向くと、頑丈な周壁の上に小さな影が見えた。あの影は。親友ヴァロによく似た影に、口の端を上げる。ヴァロの娘、キーラだ。あの小さな身体で、しきたり通り『夜を守る者』所属の隊員達からの挑戦を全て退け、新しい『夜を守る者』の隊長になるとは。その報告を受けたときと同じ感慨に、アルトの胸は悲しく騒いだ。


 キーラは、魔物と化すことが怖くないのだろうか? ……ヴァロは、怖くなかったのだろうか? もはや訊ねることができない質問に、アルトは首を横に振って『始まりの都』に背を向けた。


 そして。昨日墓地で見上げた、翼持つものの影を思い出す。平原を開拓するために『始まりの都』を建設した、優しき獣と盟約を交わした『夜を守る者』の初代隊長であるライナの祖父リクハルドは、丘から平原に向かって飛ぶ強き翼を持つものを見て、平原に向かうことを決めたという。その名残が、アルトが身に着けている、羽根を模した銀の留め金。


 大丈夫だ。『始まりの都』を守ろうとする小さな影と、都を守った親友に、強く頷く。『夜を守る者』が魔物と化す危険を冒して人々を守るのなら、『翼持つ者』は、白い土と暗い闇によって不毛で危険な地と化した平原から人々を安全に、そして早急に脱出させる。犠牲は、要らない。もう一度、丘の向こうへと飛んでいった大きな鳥の姿を思い出し、アルトは一人、頷いた。

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