誰も知らない声 1

 冷え冷えとした風に、僅かな声が混ざる。


 しかし顔を上げても、荒んだ通りには人の影一つ見当たらなかった。


〈また、だ……〉


 通りに並ぶ、半ば壊れたスレート葺きの屋根の向こうに見える灰色の空を見上げ、息を吐く。この街に暮らすようになってからずっと、時折響く泣き声にも似た声が耳について離れない。再び、人気の無い通りに目を戻し、ウルは幅広の肩を竦めた。実体の無いものに苛立つのは、自分らしくない。それでも、泣いているのか、それとも歌っているのか分からない声が心に引っかかっていることは、確か。


 唇を噛み締め、壊れた石や煉瓦の欠片が散らばる通りを歩く。とっととこの街をずらかるのが一番の方策だとは、分かっている。だが、何故か、踏ん切りがつかない。足下の石を、ウルは強く蹴りつけた。


 帝国の西側、丘と呼ぶには急峻な山々の更に西側に広がる、平原。その平原を開拓する人々を送り出し、そして平原を跋扈する魔物を平原内に留めるために作られたのが、この『始まりの都』という名の砦。だが、一時は繁栄を見せた平原は、じわじわと地中から湧き出てきた『白い土』によって不毛の地と化した。『白い土』と同時に発生した病魔にも、人のみを襲う闇にも似た魔物達の襲撃にも耐えられなくなった人々は平原を見捨て、この砦を経由して丘の東側へと去って行っている。その人々に紛れてしまえば、誰にも咎められることなく、この砦を脱出できる。だが、ウルがそれをしない理由は、自分の罪を後悔しているからではない。


「……あ」


 不意に、驚きに怒りの混じった声が、立ち止まったままのウルの耳に響く。顔を上げて視界に入ってきたのは、横の通りから出てきたばかりのぼろをまとった集団。皆一様に顔が朱いところをみると、この近くにある安酒場でしこたま飲んだ後らしい。


「おまえ、ウルじゃないか」


 その集団の一人が、ウルの前に立つ。見上げるように睨む濁った瞳と、濁酒のものであろう腐った臭いに、ウルは口の端を下げた。


「おまえもとうとう捕まっちまったのか」


「良い気味だぜ」


 ウルを囲む酔った集団に、見覚えはない。だがおそらく彼らは、ウルが窃盗の相手に選んでいた、砦と丘の間の一日ばかりの行程に潜み、平原を脱出する人々に強盗を働いていた見下げた奴らの一部だろう。集団から聞こえてくる怨嗟の声から、ウルはそう推測した。人手が足りないため、平原の人々を守る任を果たしている部隊『翼持つ者』は、平原で罪を犯した者への罰として『翼持つ者』部隊での数年間の奉仕を言い渡しているらしい。人から奪うことしか知らないこんな奴らまで使わないといけないとは。ウル自身、彼らと同じような理由で似たような罰を受けている身だが、それでも、ウルを囲んだ連中の肩できらめく、『翼持つ者』の印である羽根を模した留め金に小さく鼻を鳴らすと、ウルの胸倉を掴もうとした毛むくじゃらの手を、ウルは一動作で払いのけた。


「このっ!」


 その動作が気に触ったらしい。ウルを囲んでいた連中が一気に色めき立つ。これくらいなら、拳だけで十分だ。少なくとも、身体を動かしている間は、あの耳障りな声は聞こえてこない。間合いを確認するために、ウルは瞳をぎょろりと動かした。その時。


「何をしている」


 高いが落ち着いた声が、空間を揺らす。ウルを囲む連中の向こうに見えた華奢な影に、ウルは思わず舌打ちした。ここで、あいつが出てくるとは。


「私の部下に、何の用だ?」


 ならず者連中が一度殴っただけで倒れそうな華奢な身体が、ウルとウルの周りを囲む連中の方へゆらゆらとやってくる。その、女にしか見えない丸顔と、砦の外壁と同じ色をした今にも解れそうな剣帯、そして胸元で揺れる白い牙を確かめる前に、ウルを囲んでいた連中は華奢な影の方へその牙を向けた。


「女は黙ってろっ!」


 侮蔑の言葉とともに、遠慮無い拳が華奢な身体を襲う。だが、ウルの予想通り、華奢な影は揺れるようにその拳を躱すと同時に、一瞬の動作でその拳の主を地面に沈めた。あの動作は。忘れていたはずの腹の痛さを感じ、心の中で呻く。今朝、不意を突いたウルを石床に沈めた拳と同じだ。


「やったな!」


「このやろう!」


 手酷く反撃されるとは思っていなかったらしい。ウルを囲んでいた連中の拳と短刀が一気に、華奢な影に襲いかかる。だが、華奢な影、ウルが不本意ながら従っているこの砦の守備部隊『夜を守る者』の年若き隊長カイは、腰の剣を抜くことなく、ならず者たちの拳と短刀を悉く躱し、そして数瞬の後には、全てのならず者を荒れた通りに沈めていた。


「行こう、ウル」


 いつものことながら、強い。不本意にも感心してしまったウルの太い腕が、カイの華奢な腕に引っ張られる。


「『翼持つ者』の隊長に、何て言われるか」


 肩を竦め、横道にウルを誘導するカイの小さな声に、ウルは思わず口の端を上げた。平原を守る『翼持つ者』と砦を守る『夜を守る者』との微妙な仲は、この砦に暮らして間もないウルでも雰囲気だけは掴んでいる。


「……わっ」


 不意に、細い道を走っていたカイの足が止まる。何があった? ウルが首を傾げるより前に、カイはウルの足下にしゃがみこんだ。


「あ……」


 溜息とともに地面からカイが拾い上げたのは、先程までは確かにカイの右肩に掛かっていた剣帯と、『夜を守る者』の正隊員の証である獣の牙。おそらく先程の小競り合いで短刀の餌食になったのであろう、その、拙い編み方をした飾り紐と、暗い青と汚れた白の線が互い違いに映る、毛羽立った細い布を握って俯くカイは、ならず者たちを殴っていたときとは全く異なる、普通の少年の顔になっていた。


「これでは、もう……」


 剣帯の破れ具合を確かめたカイの小さな声に、思わずその細い肩に手を置く。生きるために窃盗行為を繰り返していたウルを捕らえた『翼持つ者』も、そのウルを奉仕で縛り付けている『夜を守る者』も、確かに憎い。それでも。


「直せないのか?」


 小さな声で、尋ねる。


「あるいは、別の布で新しく作るとか」


「飾り紐は、編める。けど、……この布の織り方を知っていたのは、祖母だけだった、らしい、から」


 ウルの問いに、カイは小さく首を横に振り、そして諦めたように立ち上がった。


「行こう」


 隊長の顔に戻ったカイの頬に、涙は見えない。


 何も、言えない。風に混じる泣き声が大きくなった気がして、ウルは素早く首を横に振った。

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