夜の向こう

 黒く重い帳を、片腕だけで引き開く。


 その帳の向こうに広がる暗がりに映る、蝋燭の光に揺れる寄り添う二つの人影に、タウノは声を出さずに微笑んだ。だがすぐに真顔に戻り、小さな影が眠る粗末なベッドの横に立つ。


「もうすぐ、日が落ちる」


 タウノの気配を素早く察し振り向いた、しかしすぐにタウノに背を向け、眠る小さな影の額を撫でたもう一つの影に向けて、冷静に小さな声を発する。


「任務があるのだろう? 夜更けまで、眠っておけ」


 タウノの言葉に、もう一つの影、この『始まりの都』を夜の闇に跋扈する魔物達から守るという職務を持つ『夜を守る者』の隊長キーラが頷いたのが、気配で分かる。だが、返事はしたものの、それでもベッド側から立ち去ろうとしないキーラに、タウノの口から出たのは、諦めの溜息。


 俯くキーラの影を見やってから、その横で眠る小さな影の方へと視線を移す。その影、キーラの息子であるカイの、ベッドに投げ出された腕に巻かれた包帯の黒い染みに、タウノはもう一度息を吐いた。昨夜、『夜を守る者』の一人として魔物と対峙し、倒れたカイをこの部屋まで運んだタウノだから、カイの怪我が酷いことは十分に承知のこと。腕だけではなく、薄い毛布に隠れている足や肩の包帯にも、まだ血が滲んでいるのだろう。カイの無茶の所為、自業自得とはいえ、この傷では当分、『夜を守る者』の任務へ戻ることはできまい。しばらくは、カイの行動にはらはらしなくて良い。そのことにだけ、タウノは心からほっとしていた。カイに武術を叩き込んだのはタウノだが、その弟子の行動にまで責任を負う必要は無い、はず。なのに、師弟関係以上にカイのことを憂慮してしまうのは、おそらく。再びタウノの方を見上げたキーラの、ベッドで苦しげに息を吐くカイと同じ顔に、タウノは二人に分からないように肩を竦めた。


 その時。


「……キーラ隊長」


 瞼を上げたカイの、涙を湛えた瞳が、暗い空間にゆらりと輝く。


「カイ」


 再びカイの額に手を置いたキーラと、そのキーラの手に微笑んで再び眠りに落ちたカイ、その二つの影を、タウノは身動き一つせず見守った。




 何度も振り向きながら帳の向こうに消えたキーラの気配が消えたことを確かめてから、予備の松明に火をつける。半ば乱暴にカイの包帯を取り替えてから、タウノは松明も蝋燭も全て吹き消し、先程までキーラが座っていた壊れそうな椅子に腰を下ろした。


 カイがキーラを母と呼ばなくなったのは、何時の頃から、だっただろうか? 溜息とともに脳裏を過ぎった想いに、タウノは小さく鼻を鳴らした。確か、食料を盗んで一晩だけ家出をした時から、だ。怪我の熱の所為なのだろう、苦しげに息を吐くカイの額に貼り付いた、キーラと同じ色の髪を弾くように撫でる。カイの不在に気付き、夜明けを待って探しに行こうとしたタウノの前に現れたカイの、一晩ですっかり変わってしまった面持ちを思い出し、タウノはもう一度、カイの熱に浮かされた額を撫でた。そう、あの日、カイは『夜を守る者』の隊員になることを志願し、その日からずっと、母であるはずのキーラを『隊長』と呼び続けている。家出の間に何があったのか、カイが話さないからタウノは知らない。だが、『夜を守る者』になるのかとタウノや他の隊員達が訊ねる度に言葉を濁していたカイが『夜を守る者』になるとはっきりと宣言したのだから、きっと、カイの心を動かす何かがあったに違いない。心の中に小さな隙間が空いたように感じ、タウノは焦るように首を横に振った。カイが納得しているのなら、タウノにはカイの言動に口を出す理由も義務も無い。だが。……母のことを母と呼ばなくなってしまったカイを、キーラはどう思っているのだろうか? カイが酷い怪我をする度に、隊長としての職務以上にカイを心配するキーラの小さな背中が脳裏を過ぎり、タウノは小さく唸った。


 そしてそのまま、暗闇の中で、目を閉じる。


 どのくらい、目を閉じていたのだろうか。


「……!」


 眠っていたと思っていたカイが毛布を蹴って起きあがる気配に、はっと目を開く。


「カイ?」


 タウノが戸惑いの声を上げるよりも先に、カイはベッドから滑り降り、解け掛けた包帯を垂らしたまま部屋を覆う帳を横に跳ね上げた。


「カイっ!」


 帳の向こうに消えたカイを、焦燥のままに追いかける。先程まで熱に浮かされていたとは思えないほどしっかりとした速い足取りで、カイは薄暗い階段を駆け下り、『始まりの都』を守る城壁の通用口の閂を外した。


「カイっ!」


 夜の闇が後退し、白みを帯び始めた荒野へと飛び出したカイの後から、タウノも城壁の外へと出る。そのカイの背の向こうに見えた白い背に、タウノの全身は震えに震えた。あの、小山のような獣は。タウノ達『夜を守る者』が対峙している闇色の魔物に似た、しかし全身真っ白なあの獣は、……まさか。


「……母上」


 地面に膝を突いたカイが、それでも顔を上げ、小さく泣く。そのカイと、タウノの目の前で、二人に背を向けたままの白い獣は差し込んだばかりの朝日に溶けた。


 古の盟約に従い、荒野を跋扈する闇色の魔物から『始まりの都』を守るために、『夜を守る者』が一夜限り得る力。魔物と対峙するために、自らが魔物となる、その力を、キーラが使ってしまったのだ。そのことをタウノの頭が理解するまでには、長い時間が必要だった。

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