15話 会戦
月が割れ、驚くべき毛皮の絨毯が地上へなだれ込む。引州町はやはり夜であった。
段々畑の団地がある山から、川を下り、瑠璃絵たちが通う学校のある市街地。そして海辺に至るまでを、ざらざらした猫の舌でそぎ取るように進軍する。
家々の屋根という屋根が綿毛のような姿体で埋まり、道という道には忍び足の、音もない足音が轟く。
走り、跳ぶ猫たちの素早さは飛蝗のごとく、その淀みのなさは乳の流れにも例えられよう。
街中を無秩序に歩き回る、変異して間もない深き者どもは、その一触で粉砕された。敵兵を解体する速さは無慈悲なまでに自動的であり、雑兵はこれで一掃される。
しかし敵もまた無尽蔵。大海原より供給される途方もない数と重さ。かつて五芒星形の棘皮動物に似た異星人と地球の支配権を争った、外宇宙の一大戦闘集団である。
歩兵の深き者どもだけで、砂浜から水平線までが黒く染まり、宙を舞う落とし子、巨躯でもってにじり寄るショゴスらにいたっては、夜霧のように視界を塞いでいた。
水辺では分が悪いと判断した猫たちは、ただちに市街地に布陣して猛烈なゲリラ戦を行う。十字砲火じみて飛び交う猫の肉弾と爪牙。
不滅の万能細胞たるショゴスですらその体積を減らし、落とし子らは翼の利を活かせず撃ち落とされていく。
しかし防衛線には致命的な穴があった。川である。
海から遡上した大型の深き者どもが立ち上がると、その体長は優にビル一棟分はある。
有史以前よりの深海生活で瞳は完全に退化し、額の瘤状器官から放射する音波で周囲を把握していた。
肉がそのまま縦になり、巨大魚人を引き倒す間に上陸を許してしまう。
挟撃を許せば、そのまま包囲殲滅につながりかねない。猫たちは遅滞戦闘を続けながら、ゆっくり後退していくしかなかった。
ここまでは手はず通りである。全面戦争で地の利のある敵に勝利するのは不可能であると分かっていた。
だからこそ、猫たちの戦略目標は二つ。時空と星辰を歪めている機械であり、それを操作する魔術師であった。
吾輩は精鋭部隊の先頭に立ち、前線がゆるやかに落ちくぼんでいる場所、すなわち瑠璃絵の学校へ一路駆け抜けていた。
瑠璃絵も猫の波に乗って後ろから追ってきている。
「ちょっと死んじゃっていいくらい幸せかも〜~」
猫のふかふかな背中を堪能しているようであった。ニンゲンとしては最上の幸福であろう。
戦線が曲がっているのは、そこが戦場の急所であり、なおかつ特殊な地形であるからだった。川が近いために、敵軍の補給網が厚い。しかし同時に、小学校というのは住宅地のど真ん中にあるものである。
必然的に猫口も多く、結果として川以外部分を猫軍が包囲し、その圧力を川から上がってくるルルイエ軍が押し返すというこうずになっていた。
だがそんな根競べは本来猫が好むところではない。当たるを幸い押す。これが猫の生きざまであり、そして突撃に必要な兵力と時期は今来たのである。
未知の大型弦楽器を力を込めてかき鳴らすような、低く微妙な震えのある鬨の声。ひげが共鳴してびりびりと震える。
楔形の陣形を取り、部隊はネコ科の瞬発力をいかんなく発揮して加速した。
すっとろい深き者どもなどは目もくれず足蹴にし、大小の触手をかわしながら、四階のあった場所、今や瓦礫と異形の機械だけがのこる校舎の最上部を目指す。
魑魅魍魎ひしめく地獄絵図の引州町において、台風の目のように、元凶たる校舎の上にはほとんど怪物のたぐいはいなかった。あまり兵員を乗せすぎては、建物の構造が持たないのであろう。ああいう機械は設置する場所も重要になるので、動かすこともできまい。
四階跡地に立っているのは、猫の形をしたショゴス、すなわちかつての引州町の議会の一員であったマッシロ。そして魔術師、加藤保穂である。積載重量当たりの戦闘力の最高効率を探った結果であろう。
「先生」
瑠璃絵が進みでる。まだ優しかった恩師への未練が捨てられぬか。ニンゲンならば無理からぬことである。
加藤のほうも、瑠璃絵を生徒として扱うことに違和感はないようであった。
「片倉さん。あなたが私から離れたとき、正直死んでしまうんだろうなと思ったわ」
「三回、いえ四回は死にかけました」
「そう。案外少なかったのね。やっぱり猫たちは優秀だわ。あなたも、私が思うよりずっと強かったみたい」
「先生!なんでこんなこと、この町を滅ぼそうとするんですか!?」
それは吾輩も聞きたいと思っていた。というより何度も聞いたがは、はぐらかされてばかりであった。
魔術師加藤は中指で太ももを叩き、生徒に分かりやすい回答を探しているようであった。
「……町自体に恨みがあるわけではないわ。もちろん殺したい人もいない。この町を本拠に選んだのも、邪神同士が綱引きをしている不安定な土地という条件に合っていて、家賃が安かったからですしね」
すべての肉を透かすレントゲン光のごときまなざし。神秘家の悪い側面が出ている。この女からすれば、町一つ消すのも電灯を消すのも、手間のかかり方以外は変わらないことなのであろう。
「理由というなら、昔からの話になるわ。……私の家は、私が生まれたときにはすでに星読みで有名だったの。女の身だったから、家業を学ぶことは許されなかったけど、隠れていくつか本を読んだわ。その中に、星の位置は数百年をかけて変わっていくという記述があったの」
記憶をたどる加藤だが、話しぶりから見るに本当に昔話だ。恒星が固有の運動をするというのが、1718年にハレー彗星で有名なエドモンド・ハレーの発見であるが、加藤の話というのはそのさらに前であろう。
読んだ本というのも、今は失われた唐国あたりの天文書なのか、あるいはさらに厳重に封印されるべき秘事を記したものなのかはわからぬ。
「信じられなかったわ。星が一日の間にゆっくり回転して、一年かけて星座が動くということも知っていたけれど、そんな何百年もかけた運動があるなんて。……私は確かめたくて、この目で見たくて仕方なかった。だからまずは寿命を延ばすことにした」
「えっと、いきなり発想が飛んでる感じなんですけど、どうやって?というか先生って何歳なんですか?」
「年齢を数える習慣もまだ無かったし、だいいち西暦だと分かりづらいのよね。朱雀天皇の御代に生まれたと思うんだけれど。ああ、寿命は頑張ればけっこう伸ばせるのよ」
ざっと千年は前である。怪物であった。
「ほ、本当に魔女なんですね、加藤先生って」
「あなたならわかるはずよ。片倉さん。千年なんてほんの誤差よ。星辰が移り変わるのはこの目で見届けたけれど、その中で得た知識は、私の小ささをより印象付けるものだった。大陸がいくつも浮かんでは沈み、星が輝いては消え、その彼方からのものは億の年月を眠りの周期にする。千年の魔女など何の自慢になるのでしょう」
「じゃあ、今度は一億年生きようってこと、ですか」
「とりあえずの目標としてはそのくらいかしら。進化というのも見てみたいのよね。西欧を旅したこともあったけれど、ダーウィンの学説には本当に驚いたわ。ショゴスによる生命の創造は知っていたけれど、どうやって複雑で多様な生命を生み出していたのか疑問だったのよ」
浮世離れしすぎている。瑠璃絵が頭痛をこらえるように額を押さえたのも当然であろう。見ているものが違いすぎた。乙女心の純真さを、千年先まで持ってきてしまったのだ。
「とりあえず細胞の劣化による死はほぼ完全に克服したから、次は時間の操作を身に着けようと思って。いろいろ選択肢はあったけれど、再現性がありそうなのは這いよる混沌、あるいはチクタクマンと呼ばれる貌の機械技術だったから、クトゥルフとニャルラトホテプの影響が重なっているこの町に来たの」
「重なってるっ、て」
「この土地だと山と海で信じる神が違ったみたい。そういう土地は結構あるのよ。地球は狭いから。むしろそういった綱引きがあるからこそ、その隙間で人類は生かされているのかもね」
「ニャルラトホテプは全てのものを馬鹿にしているから、大体の神性と仲が悪いんだけれど、クトゥルフとはそれなりね。その微妙さがいいのよ。ずいぶん苦労したけれど、信者同士の争いの隙をついて、どうにか時間と歯車の関係についての情報を取り出せた。そしてこの機械が完成したの」
そういえば吾輩がこの町に来た頃、邪神の影色濃いにもかかわらず、なぜ教団のたぐいはカスのような三下しかいないのかといぶかしんだが、これはこやつがめぼしい教団を皆殺しにでもしたからに違いない。そういうニンゲン死にを気にしない大雑把さがこやつにはある。きつい農薬のような劇物である。
「で、でもそれじゃ、あれ?先生はもう目的を果たしたってことですか?
ってことですか?じゃあなんでこんなわけのわからないことに?」
「ああ、それはあなたの分ね」
「は?」
いよいよわからなくなってきた。優しい教師であることに間違いはないであろうが、加藤保穂はまぎれもない神話級の狂ニンゲンである。
「片倉さん。あなたは本当にいい生徒だったわ。社会的信用のためだけに選んだ仕事だったけれど、あなたが生徒になってくれたおかげで、教師になってよかったと思えた」
「へ、え、あの」
何顔をあからめておるのだこいつは。
「でもあなたは深き者どもの血筋でしょう?このままだと普通の人として寿命を迎えるか、ルルイエに囚われて、さしたる仕事も任せられないまま使いつぶされるか。可能性のない生き方よ。それは」
「だ、だから?わたしのためにルルイエを?」
「ああいえ、ルルイエの浮上自体はもとからの計画よ。機械のテストと、世界を滅ぼさない程度に海底都市の浮上を見ておきたくて。あなた用のは変異のほうね」
大学の講師のように、加藤はその場で歩き回りながら説明する。
「進化論に感銘を受けて、遺伝子についても勉強したわ。そのからくりの仕組みについて。化石燃料の燃焼力をそのまま用いるのではなく、お湯を沸かして電気に変換してから使うように、遺伝子のタンパク質合成能力を適度に誘導してやることで、深き者どもは作れる。あれは生物の持つ力なのよ。呼び声はそれを思い出させるだけ」
「そ、それと、わたしに何の関係が」
「あなたなら大丈夫かと思って。もし呼び声に対抗できるなら、あなたの夢見の力は覚醒する。実際したでしょう?」
つまるところ、愛弟子の実力を見極め、耐えられると思ったから、死亡率九割を超える劇薬を飲ませた程度のことらしい。狂ニンゲンとしては、まあ普通の行為である。
瑠璃絵は正気度の無い相手との会話の経験がないためか、優しい先生がついでのように大虐殺に手を染める事態についていけていないようであった。
狂ニンゲンというのは悪事を行うのではない。狂気を行うのだ。優しい先生のままで、虫のようにニンゲンを殺せる。
瑠璃絵がまだニンゲンの正気の残る世界にいたいと願うのであれば、あれは絶対に相いれないものだ。
魔術師加藤は一通り語り終えたと思ったのか、瓦礫のわきに置いていた水筒から茶を飲んだ。
「それで、片倉さん。こえは私のカテナお願いなのだけれど、私と一緒に研究してみない?実験はもう終わったし、あなたが来てくれるなら、もう私がこの町に何かすることもないわ。望遠鏡も、もっといいのがあるのよ?」
互いの断絶について、一番わかっているのは加藤であろう。千年の間、孤独を貫かざるを得なかった意味。優れた頭脳を持つ、なおかつ本人が理解できないわけがない。
果たして瑠璃絵は瞳を閉じた。涙は自然にしたたる。
「先生。わたし、先生のこと大好きです。きれいで、頭がよくって、優しくて。わたしのあこがれが形になったみたい」
「ありがとう。あなたも素敵な女の子よ?」
「でもわたし、ずっとウル太と一緒にいたから、教えてもらったことがいっぱいあるんです」
「ウル太?ああ、その猫さん?」
突然話題が切り替わる。吾輩何か教えたことあったであろうか。猫の毛を触るときには力を入れるなとかか。
「ウル太は教えてくれたんです。夢は、寝ているときに見るものだって」
なるほど。さすが吾輩。寝ていても真理を語る。
「そう。夢は現実にいくらでも転がっていると思うけれど。あなたは違うのね。片倉さん。猫たちは殺します」
加藤の袖口から金の鍵。
「離れろ!」
空間がゆがむ。物質の境界がずれ、初めから分かたれていたかのように破断する。まったく魔術師という人種はせっかちが多い。
「目標の第一は機械!次に金の鍵!魔術師は最後である!」
「分かってるぜ!行くぞてめえら!決戦だ!」
福袋が機械に向けて飛び出すや、マッシロが膨張する。
テケリ・リ!テケリ・リ!
語る言葉さえなく、数億年前に滅んだかつての主人の声を木霊のように唱和し、不定形の万能生命は突入部隊に襲いかかった。
そして吾輩は加藤と対峙している。
この騒動の肝が道具にある以上、魔術師自身の優先度は低い。しかし抑えがいなければ機械の破壊どころではない。
この狂気の魔術師の動きを封じるか、あるいは倒す必要があった。
吾輩と瑠璃絵の、一猫と一人でだ。
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