人間 呼び声
《もど》りなさい。
声が頭を揺さぶる。戻らねばならない。瑠璃絵の頭にあるのは今それだけだった。
空に目を向けると、いつも通りの深い蒼色がある。先ほどまで狂った色彩をしていたようにも思えたが、気のせいだったかもしれない。空が変な色になるなどまずあり得ないことなのだから。
星と星の間にまた星を見る。そうやって光をかき分けたところに我らの故郷がある。
だが今はまだ、そちらを考える時期ではない。先に解決すべき問題がある。
目線をすっと前に向ければ、空と海が合流する線が薄っすら輝いている。都の光がここまで届いているのだ。
海に飛び込む。泳ぎはそれなりにするが、思えば海に行ったことは無かった。瑠璃絵の両親は海に行こうと言い出しはしなかったし、何よりウル太は海が嫌いだった。
ウル太とは誰だったか。奇妙というか、珍妙な響きに思える。
ウルタールの猫。兵士。狩人。残忍な捕食者。敵。
彼方の呼び声はそう言って警戒をうながすが、そんなに危ない感じはしなかった。
しかし今は都のことだ。帰らねばならないのだから。
海の水はプールとは違っていたが、むしろ蹴る足の力をよく伝えて、瑠璃絵をその懐の奥深くへと連れて行く。
月光がイオニア式の列柱のように差し込み、その間を白いイルカの群れが泳ぐ。イルカを見るのは初めてだった。
白い種類のイルカがいるのは知っていたが、あれは普通のイルカが白くなったものらしい。アルビノというのだと、父親に教えてもらったことがある。
海はひたすらに深く、黒々としてその底を見せなかったが、一蹴り進むたびに新しい発見を与えてくれる。大きな魚。ゆらめくクラゲ。古びた潜水艦。人の形をした、とても大きなもの。
底に行けば行くほど神秘はいや増して、想像の限界を軽々と超えていく。
底なしにさえ思えた深淵も、瑠璃絵の前進に心許してか、やがてその奥底にある秘密をかいま見せるようになった。
太古に水底へ沈んだいくつもの都市。ムー、アトランティス、レムリア。野蛮な酸素の狼藉も届かぬ水の中で、往時の姿を保つ壮麗な柱と屋根が過ぎ去っていく。
ここが故郷なのだろうか。これほど美しい街なら、海の下でも暮らしていいかもしれない。
違う。我らの都はさらに深く、遠い所。このような積み木細工など比べ物にならぬ驚異の地。
やがて建築は人間の業を上回る荘厳さを帯び始める。五芒星形の寺院らしきものを中心にした、とてつもない複雑さと緻密さをもった岩石都市が眼下を埋める。
人間とは異なる美意識を徹底した造りは、その主たる種族の誇りを示しているようであった。
あれが古里だろうか。確かにあんな都市を人が計画して打ち立てるなどできるはずもない。
違う。あれは滅びて再び目覚めぬ者たちの廃都。我らが主は死すら死したる玉座にあり、今こそ目覚める。
そう言って呼び声はさらに先へ、さらなる深みへ瑠璃絵を案内する。
大きな流れが瑠璃絵を運んでいたが、様々な驚異を見つめる中で、瑠璃絵はこの先に故郷はないのではなかろうかと思い始めた。
お父さんとお母さんはどうしたのだろう。大変なことが起きたのだが、巻き込まれていないだろうか。
いずれ来る。その時には共に
そうかもしれない。両親は瑠璃絵の父母なのだから、当然同じ場所に帰るのだろうから。
でもまだ足りない。猫は水が苦手だから、海の底なんて絶対来なさそう。
猫とはなんであったろうか。ウルタールにいるらしいが、どんな形をしてどんな声で鳴くのだろう。
我らとは異なる世の生物。もはや会うことはない。
それはおかしい。瑠璃絵は声に抵抗できることに気付く。ウル太が行かないところには瑠璃絵もまた行かなかった。
何年か前、悪ガキたちがため池に立ち入った時も、ウル太が柵に触ろうともしなかったから、瑠璃絵は遠くで見ているだけだった。
それで誰かが池に落ちた時、すぐに助けを呼べたのだ。
ウル太は賢いしかわいい。それなのになぜ一緒にいれないのか。
死せるクトゥルフ
ルルイエの館にて
夢見るままに待ちいたり
声は強く呼ばわり、流れはもはや無意識に乗るものではなく、還るべきものを永劫の無明へと引きずる巨大な腕力になっていた。
瑠璃絵は精一杯の力でもがくが、風よりも速く流れる海流は、魚もイルカも潜水艦も街も人も区別なく運んでいく。
せめて流れの外に出ようとするが、上も下もない無重力の世界で、自分の位置さえも分からなかった。
どこまでも闇。落ちているという感覚以外、五感は働いていない。
ふと、小さな光が差してきた。空から降る月明かりの、最後の一雫。
それは罠かもしれなかったが、瑠璃絵に選択肢はない。帰らねばならないのだから。家族が、両親と猫一匹が待つ家に。
呼び声とは異なる、朗々とした美声が響いた。人を引き付け、あるいは一呑みに飲み込んでしまう危うさに満ち満ちたテノール。
ここはお前の見た夢の都ではない。
人の都はその夕映えに霞む思い出の中にしか無いのだから。
ふりかえりさえすればよい。ふりかえりさえすればよいのだ。
お前の幸福のある場所へ。お前が愛したものの方へと。ふりかえりさえすれば。
瑠璃絵はふりかえり、虚無の帳を見透かす。月はいつの間にか元の大きささえ追い越して、海面に接しているかのように見えた。
その重力が少女を捕らえ、上げ潮とまとめて宙に放り投げる。
くるくると宙返りを繰り返すと、海はすでに眼下になく、代わってうっそうと茂る森をえぐった、無味乾燥な建物が現れた。
呼び声はもう遠い。瑠璃絵は山の団地の最上部にある、質素なベッドの上で目を覚ましたのだった。
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