第7話 跳躍

 思えばこの古巣に戻るのも久しぶりである。


 というのもわれら猫族は一度住みついた場所をなかなか離れぬが、大きな事件やら気が変わることがあると旅に出て、また別の場所に居を構える生活を送るからである。


 ウルタールは地球全土を領有する猫族の首都であるから、そこの軍団も突出した練度と勇猛さを誇る。幼少の頃よりウルタールにいた吾輩も、猫の軍団にてまずまずのキャリアを積み重ね、佐官の栄誉にあずかることができた。順当にいけば将軍も夢ではないと言われたが、飽きたので止めた。


 その後エジプトで猫神ブパスティスに仕えるやたら顔の長い神官ラヴェ=ケラフに崇められたり、アメリカの地方都市でぬくぬく過ごしたりして、最終的に引州町に落ち着いておるわけであった。

 ウルタールの印象は何一つ変わってはいない。雑然としながらも、どこか暖かみのある町並み。

 ニンゲンとカラスはどうしてか光り物を好むが、日向と月映えの双方を好む猫族としては、あまりぎらぎらしたものは好かぬ。窓から漏れる暖炉の光くらいがちょうどよい。


 町に入ると、久しぶりに帰ってきた同胞を歓迎する声が四方八方から降ってくる。とはいえお互いに毛づくろいする余裕はなさそうであった。魔法の森の変事はこのウルタールからでもよく見えていたからである。

 万一の場合に備えて、兵士たちは軒下や煙突管の間に布陣し、命令を待っている。吾輩はその間をぬって、大きな煙突のある家に向かった。


 その家はずいぶん暖かな暖炉のある所で、吾輩の血縁が長く住んでいる。そして猫の軍勢の司令所の一つでもあった。

 食卓にニンゲンはおらず、大勢の猫ばかりが忙しく動き回っている。ニンゲンは異変を恐れて部屋で固まって震えているのだろう。それが正しい。


 食卓の真ん中におじい様がいた。灰色の毛並みも立派な、かくしゃくとした老猫で、威厳あるヒゲをぴこぴこと動かしいる。

 吾輩が来たことについて特に驚きもないようで、食卓の上からちょいと目をくれて話しだした。


「どうも今回はお前に責任があるようだな。あの痴愚たる蕃神どもの魂が自ら動くとは。滅多にないことだが」


 重々しい声。正確には吾輩の住む町の変事のためであるが、ウルタールに住む者にとっては変わらないことであろう。


「なに分吾輩が住む町で前例のないことが起こっておりまして。長居はいたしません。月まで行けば、奴なら勝手に追ってくるでしょう」


 事態は吾輩の思惑より大きく動いている。あやつもさっさといい席を取ろうと急いでおるのだろう。意味もなくウルタールに攻め込むような、いやそういうやつではあるが、今来るのなら引州町に興味があってのことのはずだ。


 おじい様は頷いて、器用にもため息をついた。年の功を重ねているだけあってニンゲンの真似がうまい。


「そうするといい。しかしお前も義理堅い。ニンゲンに借りがあるのは分かるが、そこまで肩入れせずともよかろうに」


 吾輩は聞き終わらないうちに踵を返す。耳の痛いお言葉だが、吾輩とて自己犠牲で身を滅ぼす聖猫ではない。猫らしく勝手に、面白おかしく過ごすのみである。

 

 さて、吾輩が里帰りしたのは閉じ込められて気が弱ったからではない。最速で吾輩の肉体を閉じ込める檻を粉砕するためである。

 吾輩は窓より出て屋根まで跳び上がった。切妻屋根の端で大きく伸びをする。頭上にはようやく金の光が満ち始めた月。


 後ろ脚に力をため、ひと息に跳躍する。

 重力に引かれ、木の葉のように落ちると、そこはすでに月の表面である。


 さて、ここからまた急がねばならない。月の特に裏側は、古来より我ら猫の遊び場であるが、同時に月の獣ムーンビーストなどのやかましい連中の縄張りでもある。そしてあの千なる異形の聖地の一つでもあるのだ。

 いつの間にやら、地球と月の間に紅い炎のようなものが輝いていた。夢の世界とはいえ、夢見る者たちの意識で作られているからには、真空中で燃焼はまず起きない。


 遠くで驚きひれ伏すムーンビーストども。その奴隷のニンゲンもどきがぎゃいぎゃいと騒ぐ。命令を受ければ雪崩を打ってこちらに押し押せてくるだろう。

 邪魔はさせぬ。せっかくの月だが、やはり長居はできないようであった。


 跳躍の準備をする。遠距離になるほど難易度は高くなるが、吾輩ほどになれば単独での惑星間跳躍も難しくない。

 宇宙の闇、無数の星々の間になおも厳然と存在する極無の壁が。燃える単眼を、三次元的に不可能な絡み方をする触手が取り囲む。膿の生臭いにおいと共に、単調だが予測のできないフルートの音が這い寄る。

 跳んだ。肉球にぬめりのある感触が張り付いたが、振り切る。もはや追いつけまい。すべてを嘲笑するがゆえに、あの外なる神は敵が多い。あまり無茶をすればこれ幸いと別の神性に袋叩きにされるだろう。


 闇を突き抜け、ぐんぐんと地球が迫る。夢の国ではない。現実の大地だ。

 大気圏を割り、夢想上の身体が白熱する。太平洋の西、ユーラシアの東。八島よりなる弧状列島が近づく。

 雲を抜け、都市が、町が、家が像を結ぶ。そして目標が映る。吾輩を閉じ込めていた家屋の屋根が。


 大波にさらわれる砂の城のように、それなりの規模を持つ木造住宅が破裂した。瓦が近所の川に落ちて二回ほど跳ねたようだ。音でわかる。

 月から幽体を落として物理的衝撃力ですべてを粉砕する月面逆落としムーンサルトである。小技を使うのは時間がかかるうえ罠の危険がある。土台から覆すのが最適解であると判断した。


 その判断は功を奏したようで、歴史ある民家はその内部の隅々にいたるまでつまびらかになった。しぶとい夏の太陽はまだ高い。

 二階を貫通して一階を爆破したので、残っている遺留品は二階のものが多い。


 ざっと見たところ、父親はこの家にさしたる興味を持っていなかったようだ。あるのは仕事の資料くらいのものである。

 そして母親は家に居ついて、妙な儀式に熱中していた。魔術に使う道具がそこかしこに散らばっている。断片の、それも複数回にわたって翻訳されたためにほとんど無意味なものとなっているが、かのネクロノミコンの一部分さえあった。一介の主婦がこれを手に入れるためにいくら使ったのか。気づかない旦那も旦那である。


 しかしこの母親は魔術師ではない。いわゆるスピリチュアルとかいう新興宗教?の一員だったようであるが、地縁と血筋に適正があるとはいえ、生半可な覚悟のものが触れられる領域ではないのだ。

 結局気分転換にもならなかったのであろう。道具も本格的とは程遠い、グッズとでもいうべきもので、数回くらいしか使われた形跡がない。そして自身の子供への暴力的な束縛に向かう。

 瑠璃絵なら帰ったとたんに捨てるような小テストのたぐいまで保管してあるのを見るに、自動機械かショゴスくらいの扱いだったようである。なるほど精神の均衡を欠くわけだ。


 それが変わった。おそらく最近になって。猫ほどでなくとも、ニンゲンの子供の成長は速い。アルバムなどを見るに、今くらいの大きさになってから親子での写真が急に増えている。それも山登りだとか遊園地だとか、それなりに手間暇かかる娯楽のものだ。

 外出も制限していたような状態からこの様変わり。この時点で入れ替わったか、あるいは母親の方に強烈な価値観の転換があったようである。それも一、二年の短期間に。


 空から降ってきたのでもなければ、小学生の息子のいる母親と急に知り合うニンゲンの種類は限られている。そやつが魔術師。魅了か、あるいは見習いですらない魔術志願者に本物を見せたのか。まあ従属させるのは難事ではなかろう。


 猫に対してここまであからさまな攻撃を仕掛けてきた以上、相当の自信があるとみてよい。計画は最終段階か、あるいはすでに発動を終えているか。


 考え込む吾輩の足元が暗くなる。雲ではない。秋の日でもあるまいし、そう早く沈むこともない。

 顔を上げる。


 


 単純に天の光球が小さくなっている。まるで地球が明後日の方向に打ち出されたかのように。真っ赤な空は夕焼けか、あるいは赤方偏移であろうか。

 空はどんどんと暗くなり、歪んだ星空が黒々と滲み出す。


 計画はすでに達成されているようであった。

 猫をここまで忙しく働かせるとは、まったく不敬な奴ばらである。


 推理している意味もなくなった。吾輩は手っ取り早く騒動をおさめてソファーで丸くなるために走り出す。


 行くべき場所は瑠璃絵の小学校である。

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る