人間 魔術師
瑠璃絵の調子は殊のほか悪い。家族の一員であり、最愛の猫であるウル太がいなくなったためである。いまだ近しい者との別離を経験していない少女にとっては驚天動地のことであり、学校に来ているのはただ家の周辺を探しつくして次は学校と考えたためである。
猫がふいにいなくなるのは珍しいことではないと両親は慰めてくれたが、とうぜん納得いくわけがない。ウル太は非常に賢い猫で、食事の時間を忘れたことは一度もない。瑠璃絵が彼を乱暴に扱った時も、噛むでもなくひっかくでもなく肉球で殴りつけるだけだった。
毛並みはつややかで病気ひとつしたこともなく、逆に瑠璃絵が風邪でも引けば様子見にやってきて、手を伸ばすと何を言うでもなく(猫だから当たり前だが)背中を撫でさせてくれた。
瑠璃絵は旅行に行くときも、ウル太と一緒でなければ嫌がった。ペット禁止の場所などこちらからお断りで絶対に行かなかった。両親は苦笑したが、ウル太は瑠璃絵にとって特別なのだ。
いつからそうなのかは覚えてもいない。ただ幼いころから悪夢を見て起きた時には、必ずウル太を抱いて寝ていた。
ウル太はいつの間にか拘束を抜け出すのが常だったが、それでもウル太と一緒なら、夢は広い野原を駆け巡ったり、不思議な港から空の都に飛んで行ったりと、夢の内容は楽しいことばかりになるのだ。
瑠璃絵は引州町からほとんど出たことはなかったが、断然満足していた。あの黒猫の後ろをついて歩く以上の冒険を、彼女は知らないのだから。
授業も聞かないまま校庭を眺める。花壇の裏、木のてっぺん。体育館の屋根。
どこにもいない。当たり前なのだが気ばかり焦る。時計は無慈悲に回り、3時を示した。
足早に学校を出ようとする。その進路をふさぐように、廊下で少年が立っていた。
いじめのことで最近よく衝突する富田だった。
「片倉、お前ん家の猫、いなくなったんだって?」
「何かした?」
瞳に込められた鬼気は、冗談では済まさないことを物語る。にやついていた少年も気圧されて返す言葉さえない。
「知ってるの?教えて」
「し、知らねえよ!猫って死ぬ前にいなくなるらしいし死んだんじゃねーの!?」
「ウル太は死んでない!!」
廊下の端まで響く怒声に、富田は目を見開く。その顔に影がかかった。
急にカーテンでも閉めたかのように、あたりが暗くなっていく。不審に思って窓を覗くと、太陽が肉眼で直視できるほどに縮まっていた。
空間が潮目のごとく渦を巻き、星辰が無理やりに一つの形を作っていく。
小学生はもちろん、大多数の人類には知る由もないことであるが、その星の並びは遥か数億年前の空に似ていた。
「ねえ、富田。空がおかしいんだけど」
答えはない。富田少年は床に横たわって震えていた。
「え、ちょっと!」
「ぐ、え。ごぼ」
駆け寄る瑠璃絵だが、富田は反応しない。目玉は下手に縫ったぬいぐるみのように飛び出て、巨大な
吐き出したのは吐瀉物ではない。むせ返る潮の臭い。海水だった。
水を吐き出した分、縮むように肌にシワがよっていく。指が
胎児から赤子への変化を逆回しにするように、肉体が丸まり、生臭い
「わっ、あああああああああ!!」
瑠璃絵が逃げたのは、異常な現象への恐怖もあるが、自分の手に負えない事だと判断して大人に頼る現実的な判断からのことだった。
しかしそれは子供にありがちな、年長者に対する信仰に過ぎない。大人とて万能ではないし、まして全能とは星と海底の差がある。
廊下から見えるのはひどい有り様だった。教師を含めたほとんどの人間は倒れ、不気味に脈打っている。変わらない瑠璃絵こそが奇妙であると言うように。
学校はダメだと直感し、一階に下りようとする。それを理性が咎める。外もダメだったらどうする?家は?
思い浮かんだのは星空だった。そうだ、屋上だ。山なんかでも焦って下山しようとすると場所が分からなくなって遭難するので、いったん山頂を目指したほうがいいと聞いたことがある。
教えてくれたのは加藤先生だった。彼女も状況を把握するために、屋上へ向かっているかもしれない。それは確かな心強さだった。
廊下を駆け、屋上に続く扉を開ける鍵を取りに行く。職員室のドアのとなりにある鍵入れ。その一番右上だ。取り出す場面は何度も見ている。
わずかにでも、職員室は大丈夫なのではないかという希望はあった。この崩壊した日常をもとに戻そうと、忙しく立ち回っているのでないかと。
だが職員室と書かれた札の下には不気味な沈黙が降りて、動くものの気配は無かった。
一瞬ためらうが、思い切って廊下と部屋を分ける板を引く。
中は伐採された後の林のようで、いつもなら窓を隠している大人たちの影は、みな横たわっている。すでに痙攣する段階は終えたのか、ぴくりとも動かない。
声をかけようかとも思ったが、どうにも愚行にしかならなさそうなのでやめた。仮に生きているとしても、この状態で避難訓練のように動けるかは、はなはだ怪しかった。
物の位置は一切ずれていない。災害はあまりに唐突に、突然に襲ったと分かる。元のままの鍵箱に手を伸ばし、できるだけ音がしないように開ける。
がちゃり、と鍵がぶつかり合って鳴る。
髪の毛が逆立つ感覚がして、慌てて振り向くが、教員だったものたちはやはり静かなままだ。
そもそも鈴なりになった鍵の束を音もなく取り扱うなど、どだい無茶な話だと今さら気づく。大急ぎで取るものをとって逃げ出せばよかったのだ。
もっとしっかりしなければと、自分を奮い立たせて鍵箱の中を覗く。
「あれ?ない……」
いつもならそこにかけてある小さな鍵が無かった。屋上の鍵など、そうそう使いはしない。まして放課後すぐの忙しい時間に。
心当たりがあるとすれば、屋上に何かと縁のある加藤先生しかいない。
ということは入れ違いになったのだ。恐らく屋上に加藤先生がいる。瑠璃絵はすぐに階段を駆け上ろうと、小動物のように振り向いた。
後ろには魚のような二本脚のものが立っていた。思わず唇を噛んで血がにじむ。
かつての教師だろうが、個人を見分けることはもう不可能だった。
「片倉、じゃ、んぶ、いか。はやく、ぼ、どりいあ、さい」
「あ、あの、わたし、屋上に行きたくって。先生が、加藤先生が」
ずいぶんどもっているな。わたしも同じくらいカタコトだけど、と、まったく愚にもつかない考えが脳を支配して、効果的なはずの行動がとれない。
「んぼ、お、お゛、も゛、戻りなさい」
戻りなさい。教師はそう言った。あまりにも滑らかな発音で。
実際のところは滑らかに聞き取れているのだと、神経の本能的な部位が気づく。戻りなさい。そう言っている。人間とは違う発声器官で。その意味の言葉を。戻りなさい。戻りなさい。
戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。
戻りなさい。戻りなさい。瑠璃絵。戻るのです。戻りなさい。戻りなさい。戻りなさい。
「ど、何処へ?」
訊けば、声は躊躇わずに応えた。
ルルイエの都に
そう、戻らねばならない。瑠璃絵はそれを思い出したが、自分には
何か方法があったはずなのだが、それを思い出そうとすると、なぜか巨大な壁に突き当たったように思考が進まなかった。
瑠璃絵の身に形容し難い不具合が出ていることを察知すると、教師だったものは修復のために瑠璃絵を連れて行こうとする。
半歩進もうとした時、開けっ放しのドアから小さい人影が転がり込む。地面に残った片足にぶつかったことで、元からよろよろとしか歩けない魚もどきは横倒しに戻った。
「こ、こっち」
「え、え!?水恵崎くん?」
瑠璃絵は意外な登場人物に目を奪われ、先ほどまでのパニック状態から抜け出した。見間違えようがない。特徴的な容姿だった。
いや、今となっては床に転がる連中に埋もれて没個性的かもしれないが、それでもクラスでいじめられていた水恵崎の顔や声は覚えている。
混乱はあったが、教師だったものが倒れた振動でまたいくつかの身体が起き上がってくる。のんびりはできない。
とりあえず水恵崎の脂っぽい手を取って走る。向かった先は廊下の端の教室だった。
水恵崎は、それこそ幾度も避難訓練やシミュレーションをしていたかのように、手際良く窓際の避難用すべり台を準備する。
「ここから降りた先の倉庫。そっちの陰に自転車、隠してあるから。二人乗りだけど、大丈夫、なはず」
ここしばらく、自身も含めて喋りにくそうな人?ばかりだ。
瑠璃絵の素直な感性に従えば、水恵崎はもうちょっと身なりに気を使って欲しいタイプの人間だ。
もちろん、そんなことで他人を悪し様に罵る、仲間外れにする、まして暴力を振うのはいけないことだと分かる程度の教育は受けている。
それにしたって本能は本能だ。止めろと言われて止められるなら、人間だって辞められるだろう。
そんな瑠璃絵でも、水恵崎のことを気に入っている部分があった。
瑠璃絵の印象では、彼はいつも何かに怯えているように見えた。いじめられているとき、彼がほとんど動きもしなかったのは、その恐怖ゆえのことだ。
しかし、それは屈服して諦めるための恐怖ではない。いつか大きなことが起こる。その時には必ず逃げてやるという、後ろ向きでも確かなエネルギーを感じさせるもの。
そのあたりが生意気に見えて余計いじめられたのだろうが、彼は些事に体力を浪費しようとはしなかった。
あるいはその雌伏は、今日この時のためだったのか。今の野生動物じみた臆病さで下に危険がないか確認する彼の姿には、一種の雄々しささえある。
しかし疑問といえば、なぜそんなことをあらかじめ予知できたのか。インターネットを見ても、予報は出ていないだろう。
「大丈夫そう。すべり台、出したら、すぐにとびこんで」
カタコトで話すこの少年に、自分の行く末を預けていいものだろうか。
瑠璃絵のその
「へ?また何を」
「片倉さん?」
声色を識別する必要さえない。瑠璃絵は勢いよく振り返る。
「加藤先生!」
そのまま信頼する大人のもとに飛び込もうとする瑠璃絵の手を、誰かが強く引く。
そんなことができるのは、後ろの水恵崎しかいない。
「ちょっと水恵崎!痛いって!」
凄い力だった。瀕死の人間が出す断末魔の怪力のような。思わず強く叫ぶが、水恵崎はちょっとも力を緩めない。
「水恵崎さん。あなたもいたのね。片倉さんがいたがっているわ」
加藤先生は落ち着かせるように語りかけるが、水恵崎は聞く耳を持たず瑠璃絵をすべり台の方に引っ張っていく。
さすがに恐怖が勝った。瑠璃絵は加藤先生に助けを求める。
「ちょっと!離して!先生!助けて!先生!」
「先生……。あなたはなぜ……。あいつらとは違うのに。なんでこんなことを」
ちらりと、瑠璃絵は水恵崎の表情をうかがう。
あばただらけの皮膚からでも、恐怖からくるひきつりがよく見えた。
予想外からの
加藤先生はまだ落ち着いている。子供たちを不安から解き放つようにゆっくり話す。
それは頼もしいというより、文字通り超人的な、人間ではないものの態度にも映った。
「屋上に行っていたのよ。学校の周りがどうなっているのか見ておきたかったから。それで、ひょっとしたら片倉さんも屋上のことを考えているんじゃないかと思って。探していたの」
流れる水のような弁舌。しかし瑠璃絵はとうとうおかしなことに気づいた。
「屋上……。先生、鍵を持っていったんですか?」
「?ええ。あなたも職員室で見たんじゃないの?先生のみんなが変化したとき、私も職員室にいたから、急いで鍵を取ったんだけれど」
加藤先生が近づく。水恵崎が掴む袖のシワが、一層濃くなる。瑠璃絵の顔も、また歪んでいた。
「鍵は、鍵箱は閉まっていました。鍵の位置も乱れてなかった。鍵箱を思いっきり閉めたらすごい音が鳴るはず」
「……騒がしい時だったから、聞こえなくてもおかしくはないと思うのだけれど?」
「つまり、事件が起こってからすぐに屋上に行ったと?」
「そうだけれど、何かあるの?」
「水恵崎くんはどうしたんですか?」
加藤は瑠璃絵の後ろを見る。瑠璃絵の腕越しに、震えが伝わってきた。
「水恵崎くんはすぐにでも学校から逃げ出したがっていた。そのために使われていない教室の、非常用すべり台の使い方まで覚えて。一秒でも早く学校から出たかったはずです。でもわたしが後からきたのを助けてくれた。ほんのちょっとだけれど時間差がある」
「あるかも知れないけれど、何の時間差なの?」
「先生がゆっくり鍵を取って廊下を通り過ぎるまでの時間です。その間、水恵崎くんは階段の下の方で隠れていた。そうじゃないとおかしいんです。わたしが迷っていたのは数十秒くらい。一分もない。先生が屋上への階段を使っていたら、待つ時間が長くなる。今度はわたしが水恵崎くんに追いついちゃうんです」
加藤が表情を変えた。
眉を八の字に曲げた困り顔。その繊細で影のある相貌に、本当に似合う表情だった。
思えばこれまで、この教師がそんな顔を見せたことはない。いや、笑っているのかも定かでない微笑みだけが、彼女の顔ではなかったか。
「先生は屋上にいってない。加藤先生。どこに行っていたんですか?」
瑠璃絵の顔に悲哀が満ちる。加藤は新任教師のように困惑している。
やがて加藤は口を開いた。
「困ったわ。自分から付いてきてほしかったのだけど。でも始めたからには、無理やりにでもやらないとね」
「飛び込むんだ!!」
ずいぶんはっきりした絶叫。誰の声か分からなかったが、引っ張る力強さは水恵崎の握力と同等だった。
水恵崎はこの絶体絶命の窮地にあって、なお機をうかがっていた。瑠璃絵の陰に隠れるようにして、少しずつすべり台の留め具を外していたのだ。
ばさばさと千鳥の羽ばたきのような音がして、すべり台が展開される。
加藤は人間離れした速度で、スーツの内側に手を突っ込む。まるで西部劇の早撃ちだった。
人さし指と中指に挟まれた細長い棒が、空の奥に落ち行く太陽の残照を受け、金属の光沢をあらわにする。
黄金の鍵であった。実用一辺倒の味気ないものではない。長さだけ見ても、ざっと20センチはある。
細かく彫り込まれた紋様はかろうじてアラベスクに似ている。だがその参考元となるはずの、何らかの植物か触手のようなものは、到底図鑑に乗っているたぐいのものではない。
その成長は明らかに狂っており、その進化は疑いもなく未知の系統から来るものだった。
人を殴るにも向かなそうなそれを、加藤は頭上に向けて振り抜く。
その先にいたのは、光を吸収しながらも
「ウル太!!!」
ついに見つけた愛猫は、すべり台の開いた口に切り取られ、みるみる縮小していく。
その姿が床に降り立って消え、瑠璃絵がすべり台の中ほどまで到達したとき、学校の四階は積み木のように粉砕された。
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