14話 瑠璃の絵

 幾千幾万かと数えるのもむなしいニンゲンたちは、海に挑戦しては消えていった。求める恵みを得られたのははたしてどれほどであったろうか。

 そして海がニンゲンに与えた恩恵など、この大水が隠す真に深き秘密に比べれば、川床の砂とその奥に眠る砂金の差がある。


 洞窟を下へ下へと歩いていくと、潮の匂いが吹き溜まる地底湖へと出た。深海とつながる出入口であろう。


 普段なら臭いがした時点で引き返すのだが、ここは夢の国。そしてルルイエもいまだ夢と目覚めの世界の狭間にある。確固たる意志さえそなえていれば、水にぬれることも溺れることもない。


 波打たぬ水面を突き破って、海の領域に侵入する。しばらく歩くと、足場がなくなった。

 足場だけではない。これまで吾輩の行く道を制限していた洞窟の壁も消え、今や重々しい無明が全方向を塞いでいる。


 遥か底では形容しがたい光沢をもつ軟体が、発光する菌類の光をうけて忙しく巨石を動かしている。

 水が渦巻く気配。それなりの大きさをもった何かが、群れをなして沈降していく。

 深き者どもである。地上では赤子のようによちよちと歩いていた彼らは、海の中では堂々と水を蹴り、偉大なものに使える侍人として、背筋を伸ばして泳いでいた。


 さて、あの群れの中に瑠璃絵はおるまい。あれは都市の急浮上に合わせて工事を行う人足のごときものだからである。

 瑠璃絵は良くも悪くも才能があった。水底に行くことがあれば、神官の職を与えられよう。もちろんルルイエにおいては非常に高い地位である。案内も丁重なはずだ。


 瑠璃絵の血筋に近いものが案内役となり、いくつもの神殿を通って、深き者どもの貴族たちに歓迎される。その後に神々の目通りがあるはずである。

 そうなると大きな建物と大通りを探せばよいことになるのだが、珊瑚礁のごとく建築物どうしが複雑に絡み合っていて、輪郭の境界線も分からぬ。

 道もこれだけ半魚人口がいれば絶対に存在するはずなのであるが、何しろ水の中。三次元の構造をとっているようで、標識らしきものの文字を読んでも何が何やら分からぬ。


 さてどうするかと、計画もなしに来てしまったことを少し後悔する。計画などあったところでどうにもならなかったに違いないが。

 しかし、味方もいないはずの深海で、なぜか吾輩を呼ぶ声がする。こちらを引きずり込んでやろうとする悪意も力も感じられない。どちらかといえば物悲しげな声であった。





 大脳のような折り重なる区画の奥で、普通より一回り小さな、子供らしき深き者どもがいる。都市の建造者でもなければ、何かの仕事をしているようにも見えない。

 古代のギリシャやローマにはよくいた高等遊民というやつ、要は国からもらう食い扶持をもらって遊ぶだけのニートかもしれなかった。


 流れを変えるには誘いに乗るしかない。吾輩は声の導きにしたがって、長屋の用をなしているのかもしれない大脳状の建物に向かった。

 しかし近づいてみれば、どうもあの小さな半魚人に見覚えがある。そもそも判別などつけようがないはずなのだが、やはり記憶が刺激される。


 言葉にならぬうめきを聞いているうちに、ようやく合点がいった。あれは学校で水恵崎陽をいじめ、吾輩に毒を盛ったあの小ニンゲンではないか。

 考えてみれば、あの毒小ニンゲンも変異したのであろうし、その魂がルルイエの都に来るのは自然の成り行きである。


 ではやはり騙されたのかとも疑ったが、この建物は街の中心からずいぶんと遠く、うごめく気配も少ない。どうもこの元毒ニンゲンはあたりの目をはばかっているようであった。

 建物に入ると、今度は成人している深き者どもが一匹。近くで観察すればメスと分かる。となればこれは元毒ニンゲンの毒親か。


 あの魔術師に魅入られた挙げ句に殺されたかと思っていたが、どうも人の皮だけ奪われて半魚人に変異していたらしい。

 魔術師加藤は瑠璃絵に慕われていただけあって、職務には忠実であったようだから、教え子の親を殺すのは忍びなかったのかもしれぬ。どう考えてもそういう問題ではないが。


 この二匹はエビの巣穴のような狭い部屋で、ひっそりと暮らしているようであった。そこには同級生を虐げたり、実の息子に猫を殺して回らせるような攻撃性は微塵も感じられない。

 ニンゲンの世の皮肉か。姿かたちもかけ離れた怪物になってようやく、この二人は親子らしく寄り添うことができたのである。



 親も子もまだまともに発声もできぬらしいが、おおよその思念を伝える技は身につけたようで、吾輩にこれまでのことをとつとつと話してくれた。

 思考などというものはおおよそ支離滅裂なものであり、同じことの繰り返しも多いので吾輩流に解釈すると、こんなところになる。


 それはもう悲惨な、狂気と狂乱のうちに深海へ送られた母親の方であったが、それが逆にニンゲンの精神を蘇らせたようである。つまり深き者どもとして発狂したがために、逆の逆でニンゲンの思考に近くなったのだ。

 そうなっては深淵の神の座すこのルルイエに居場所とてなく、街の外れで深き者どもの影をも踏まぬように過ごしてきたが、そこに突然息子がやってきた。


 いろいろと複雑な状況に思えるが、二人にしてみれば奇跡のように再開した親子であり、地上に未練を持つ希少な同士である。わだかまりを捨てて、親子共に再出発したというわけだ。


 もはや地上に戻れるとも思わぬが、今までやってきた、やらせてきたことを思うと胸が痛む。罪滅ぼしもせずには明るい世界を偲ぶことさえできぬので、少しは善行を積みたいとのことであった。


 この自己矛盾こそまさにニンゲンといった感じである。もはや深き者ども以外の何者でもないというのに、魂を通して出力されるのはニンゲンの行いでしかないのだ。

 死すら死する永劫の果てに永久に横たわるものも蘇るという。深き者どもに寿命という概念はない。あるいはこの親子の目にも、地上の日が注ぐことがあるかもしれぬ。そこはもう祷るしかない。


 母親はここにとどまって、子供の元毒ニンゲンのほうが吾輩を案内することになった。子供の方が吾輩と体長も近いし、すばしこいから何かとやりやすい。

 元毒ニンゲンは吾輩に負い目があるためか、居心地悪そうである。吾輩は猫であるから過去のことなど気にはしないのであるが。


 目標までの道がわかると、実にスムーズに物事が運ぶ。元毒ニンゲンはニンゲンであったころから隠れて行動することに慣れていて、非ユークリッド形状の街並みをすいすいくぐり抜けていく。

 吾輩も世界のおおよその国を探訪したが、ルルイエばかりは文書で読んだばかりである。海の底に行こうなどと思う猫もいまいし、あるいは吾輩こそ最初にルルイエを訪れた猫かもしれなかった。


 知恵の輪を外すようなこんがらがった道順を経て、ついに差し渡し2キロメートルばかりあるドームの中に入ることができた。

 ここは神殿ではないが、そのすぐ前にあって祭りのときなどに使われる遊戯場であるらしい。神殿への立ち入りを許されぬ一般市民はここで出し物を見たりして楽しむそうであった。


 そして馬鹿でかいドームの真ん中には劇場の台が設置され、そのさらに中央に、触手に埋もれるように拘束される瑠璃絵がいた。


 この期に及んでまだニンゲンの形を保っているのは、吾輩からしても驚異的である。

 そのために、まず仲間として迎え入れてから神々に紹介するか、あるいはむりやり精神を壊してから深き者どもへと変貌させるかで議論せざるを得ず、この神殿前で止め置かれていたのであろう。大した娘であった。


 縛られた瑠璃絵を見て元毒ニンゲンが変な気を起こしておったので、鼻先を引っ掻いてやる。いまはそんな場合ではないのだ。


 しかし当然ながら、このような大型施設に誰もいないわけがなく、瑠璃絵の監視員以外にも清掃員らしきものや単なる野次馬まで、深き者どもの影が途切れなく続いている。

 戦ってもいいが、ここは首都の中心地。深き者どもとて威信をかけて侵入猫を撃退しようとするであろう。

 この量はいくらなんでも多勢に無勢。それに瑠璃絵を隠されればそれまでである。


 吾輩はあの母親の作戦に乗ることにした。元毒ニンゲンにそれとなく指示を出す。

 小さい身体に吾輩を隠すと、元毒ニンゲンは小さな石ころを置いて、舞台を挟んで反対側へと泳ぎ出した。


 子供が活発なのは深き者どもとてニンゲン変わりない。まして遊興施設であるから、中心部によほど近づきさえしなければ怪しまれもしないのである。

 大きく迂回して、ドームの反対側へたどり着く。準備は整った。


 元毒ニンゲンは、母親より教わった呪文を声を低めて唱える。シワだらけの太い喉に合った呪文は、正しい発音で詠唱され、2キロメートル離れた石ころへ届く。

 水がたじろぎ、押し出された大波が舞台を揺らした。


 巨大なタコにも似た頭部に、緑の鱗に覆われた四肢。翼はエーテルを掴むことで本来浮かびようのない質量を飛翔させる。

 完全な形で招来されたクトゥルフの落とし子は、そこがどこであるかも分からずに、いつも通り召喚されたときと同じように暴れだした。


 魔術師加藤はまったく真面目な教師であった。騙して利用するだけの女に、きちんとした魔術まで教えていたのだ。

 もっとも教えたのは招来の呪文のみで、従属まではできないそうであるが、今回に限っては、むしろその方がいい。適当に暴れてくれないと困るのだ。


 いきなり現れた落とし子を見て、舞台にいた深き者どもは触手と一緒に瑠璃絵を避難させる。

 驚き慌ててはいるが、それは侵入者を警戒してのことではない。

 大型の獣が何らかの刺激で暴れ出しただけ。そういった態度である。ここはルルイエ、クトゥルフの落とし子など珍しくもない。


 そしてやってくるのは吾輩たちのいる方向である。行けないなら来させればいい。そういう作戦であった。

 

 瑠璃絵が近づいてくる。元毒ニンゲンはヒレの足で海底を蹴って、吾輩を思い切り投げ飛ばした。

 一匹の延髄を蹴って、着地とともに三角跳び。その要領で目やら顎やらを叩いてやると、瑠璃絵を運んでいた深き者どもはそこらに突っ伏した。


 やるべきことはやった。元毒ニンゲンに向き直って感謝を伝える。彼は頷き、瑠璃絵から隠れるように逃げていった。

 後は瑠璃絵の力、その可能性に賭ける他ない。


「起きろ瑠璃絵!起きるがいい!」


 「ん……」


 よくよく危地に陥る娘である。支えてやるのは吾輩にも荷が重い。たまには自分であがいてもらわねばならぬ。

 吾輩は前脚のバネをめて、瑠璃絵の頬を勢いよく張った。


「びゃっ、てまたよくわかんないところ!?もう嫌だよう」


「嫌ならさっさと逃げ出すのである!ここはいまだ夢の地。強く思い、己の内の扉を開けば現実に戻れる!」


 言ってはみたが、難しい。というよりほとんど無理だ。

 ルルイエはすなわち大いなるクトゥルフの夢でもある。それが持つ現実感。精神を圧迫する存在感は、常人が否定できるようなものではない。


 ようやく乱入したのが不届きな盗人であることに気づいて、落とし子が暴れるのをそのままに深き者どもが押し寄せてくる。

 巨大すぎるドームゆえに距離はあるが、ここに到達するまで二分とかかるまい。伸るか反るかだ。


 瑠璃絵が悪夢をも超えた光景に悲鳴をあげた。戦いを知らぬなら、怯えて縮こまるのは仕方ない。だがそれでは困るのだ。


「落ち着けい!これはお前にとっては悪夢に過ぎぬぞ!ふりかえりさえすればよいのだ!お前の家を見よ!その家族を!」


「無理!ムリ!何よこれ!嫌だ!こんなところにいたくない!」


 いたくないのは吾輩も同感である。しかし瑠璃絵の都は見えそうにない。やはり無謀であったか。



 否、心を引き締めるべきはむしろ吾輩である。


 ここまで猫として下僕に接してきた。吾輩の役目を考えれば当然のことであるが、今や吾輩が瑠璃絵の力を当てにしている。

 それならば対等に接するのが道理というものではないか。夢見るものならば、同じタマシイを持っているのだ。


「瑠璃絵よ。ここはルルイエの都というところである。いまだ夢の底に沈む、死したる都にして、お前の遠い先祖がいた場所だ」


「違う!わたしはこんなやつら知らない!」


「違わない。血筋でいえばそうなのだ。しかし血だに遺伝子だのというのは、結局は呼び水に過ぎぬ。大事なのは呼び声。その声に応えるお前の心である」


 吾輩が言って聞かせることで、瑠璃絵にようやく落ち着きが戻ってきた。


 瑠璃絵とは、思えば奇っ怪な名である。不思議な響きとニンゲンは言うし、本人も本気ではなかろうが、テストのときに名前を書くのが面倒と愚痴をこぼしていた。

 瑠璃絵の両親、片倉父と片倉眩野はこの町の出身である。名の持つ響き、あの父なるダゴン、母なるハイドラ、そして大いなるクトゥルフ坐すルルイエの響きに気づかぬはずもない。


 あるいは屈服したのか?己をさいなむ恐怖に呑まれ、大水への恐れから、水底でも息ができるようにと、ルルイエの軍門に下ったのであろうか。


 違う。吾輩は片倉家を知っている。父母の普通の愛情に満たされた、住みよい家であった。ニンゲンが心の故郷とするに相応しい、燦々たる思い出の来るところだ。


「瑠璃絵よ、お前の名を思い出せ。この異界ルルイエの名に似ていよう。お前の父と母がつけた名である。海の底を恐れてのことではないぞ。逆なのだ。ルルイエの名がお前を覆うとき、お前の名を思い起こし、その名のありかを、神をも驚嘆せしむる耽美なる都の光で深き海をも塗りつぶすためなのだ。吾輩は聞いたぞ。お前の両親が話すところを」


 夜になると母親の腹の中で踊る赤子であった。片倉眩野が苦しむ声がうるさいので、側に引っ付いてやると踊るのをやめる。



 きっと夜が怖いのね。暗いのが怖いのは分かるわ。でもウル太だって黒い毛をしているのよ。見たらきっと気に入るわ。


 瑠璃絵か。不思議な響きだけどどうだろう。古臭く思ったりしないかな。名前でからかわれたりしないかな。


 大丈夫よ。きっとこの子は気に入るわ。夜が怖くないように。夜空と星が、瑠璃色の絵が好きになるように考えた名前よ。




 恐れてのことではない。両親はただ善き名をつけたのだ。願いを込めて。


 打ち勝てと。




 時間は二分を過ぎているはずである。とうに魚群に呑まれているはずであった。

 しかし深き者どもは遠くで手足をうねらせるだけだ。

 離れていく。いつの間にか石細工の円形屋根は眼下にあった。



ふひゃははへへへへっひいひひひひかかかかががかかか



 背中の月が嗤う。あのちっぽけで薄っぺらい光源は、いつの間にか光を増し、吾輩の毛から離れて昇っていく。


 深き者どもが追ってくる。虹色の暗い光沢を持つショゴスも。翼と爪をひらめかせる星の落とし子も。神殿の奥よりゆっくりとその身を立ち上げる恐るべき大きさの神々も。




うびゃほほひへへっへやはははははっひひひふぁふぁふぁはははははは




 月は狂笑し、それらすべてをあざ笑う。古代の人が想像したように、海の底を通って空へと。神の夢から人の夢へと浮上していく。


 神ではだめなのだ。大いなるものでは。世界の無意味を、その空虚を知るがゆえに。宇宙の冷たさが肌を刺し、強い星明りが瞳を貫くのを感じるから。

 見るものを慄然とさせる、暗喩じみた光景は作れても、己を慰めることさえできない。


 か弱き人はそれ故に、自らの記憶を最大に美化して研ぎ澄まし、神々の心すら奪う壮麗な都を建築する。

 それが夢見るものの力。現実をも塗りつぶす瑠璃色の絵。


 狂える月は少女を大海わだつみの懐より飄然とかすめ取った。

 王のごとく高々と昇る月を、長槍隊のような象牙の千木が迎え入れた。月が照らし出すのは異次元の角度どうしを結ぶ曲面からなる水底の死都ではない。


 どこの様式とも知れぬ異国趣味と擬古風が混じり合う街並み。銀線を撚った飾り紐が空を自由自在に区切り、城へ続く大道には虹色に輝くアンモナイトの化石が埋まる大理石の列柱がそびえる。


 そして全ての中心に建つ瑠璃の城壁。精緻な天文台が星の炎を睨み、一切の灯りのない城内は夜空を飲み込んできらめく。

 三百六十六層の翡翠の巨石でできた壁に囲まれるその月映えの都こそは、夢見る少女の心。その未来。そのタマシイ。


 ついに天の玉座に舞い戻った月宮は、ドリームランドの月である。

 時空を歪める機械を壊し、跳躍の技を取り戻した猫たちが乗り込んでくる。陣容を整え、最終決戦に向けて爪を研ぎ上げた猫たちが、一斉に後ろ脚に力をためる。


 月の大地が沈み込む。反動を得てついに大跳躍を果たした猫の軍勢が、瑠璃色の城門を通って現世へと跳ぶ。



 目覚めるがいい。そこはすでにお前の故郷。引州町である。

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