第22話 おやすみなさい
俺が消えるまであと一時間を切った。
彼女は俺にどこに行きたいかを聞いて、俺は海辺をリクエストした。
「あの~、リクエストついでに手を繋いで歩きませんか?」
彼女はため息をつきつつ、サッと手を出した。ひんやりとした手を繋いで、海辺を歩いた。
裸足になって、波打ち際を歩いた。カニがいた。小さいやつ。波と追いかけっ子をしているみたいだった。コイツらもまた、人間がいなくなって、ラッキーてなもんだろう。知らんけど。実際、知らんけどだろうな、彼らからしたら。人間なんて単位でわざわざ考えないだろうし。けど、そんなことは、どうでもいいか。感謝とか欲しいわけじゃないし。
ただ波にさらわれる足が気持ちよかった。砂に少しだけ埋もれては歩く。足跡はすぐに消えていく。人間の足跡もこうなればいい。後腐れなく、とっとと。
「あなたには、なにやら罪の意識があったのですか?」
ハナさんが聞いた。ハナさんも裸足で、足元を見ながら、俺を見ずに言った。
「そうね。あったね。とてつもない負債を抱えちまって、とても返せないなという感覚が。まともな人間なら誰もが持っていたんじゃないかな」
「あなたはまともな人間でしたか?」
「あはは、違ったかもね」
みんな狂ってたのかもね。そういう風に仕向けた社会も。俺は狂ってねえぜって嘯く欲深な連中も。
「人間は、滅んでよかったと思いますか?」
「思うね」
ノータイムで答えた。
「やっぱり、その思いだけは変わらないかな。改めて何度も考えても」
「ヒトミさんも?」
「そうだね。結局のところ、俺らは一つの群れだったんだよ。不幸なやつも悲しいやつも、そいつらがいるから幸福なやつも喜ぶやつもいる。逆も然り。そうやってでしか、生きられなかった。そしてあまりに巨大になりすぎた」
「それってヒトミさんのせいですか?ヒトミさんに罪はありますか?」
「ヒトミさんは全く関係なかっただろうね。彼女は支払う必要はなかった。彼女はずっと言われなき負債を背負わされてきたんだろうから。ずっと、支払わされてきたんだから。けど、もう一方に受け取るやつがいる。支払い、受け取り関係があるだけで、罪なのさ。この関係そのものが。ここに巻き込まれたらもう終わりさ。だから、人間関係に巻き込まれたらもう終わりなのさ。全員共犯になって、全員罪人になってしまうのさ」
「適当なこといってません?」
「バレたか」
脇腹を強く小突かれた。
「おっー、いってー!」
俺は小突かれた勢いを利用して、わざと海にダイブした。
「何してるんですか?」
海にダイブしたけれど、ちょうど波が引いたところだったので、濡れた砂浜にダイブしただけだった。痛い。
けど、次の波が来るまでこのままでいて、俺は波に逆らわず、そのまま押し引きされてさらわれていった。
結構沖まで流されたけど、ハナさんが入ってきて、襟首を乱暴につかまれて、ペイッて砂浜に打ち上げられた。
「まじ、何してるんですか?」
俺は溺れかけていたので、苦しくて、咳き込んでいた。ああ、この咳き込むということからもオサラバだなぁと思うと、苦痛も愛しいかもしれない。なんて思ってみようと一瞬したけど、そんなことはなかった。最悪な気分で、ずっと涙が流れていた。
「・・・リクエストいいっすか?」
「なんですか?」
ハナさんはもう自分の体を乾かしていた。
「亀みたいに上に乗ってくれません?」
俺はうつ伏せだったので、親子がめのように乗ってほしかった。ハナさんの体は今、さぞや温かいことだろう。
「イヤです」
にべもなく断られてしまった。
「いいね。ナイス拒否」
そりゃそうだよな。これまでだいぶ甘やかしてくれたけど、そうすべてが都合よく行くわけ無いわね。アハハハ、人生っぽくていいじゃない。打ち上げられてビチョビチョで、髪はもずくみたいで、口の中は痛いくらいの塩辛で。
たまんないね。もうすぐこれともオサラバだ。
「もし、手元に10億でもあったら、俺は人類消去を選ばなかった」
急に言葉を吐いた。エグ味のある海水をペッペッ吐き散らしながら。
「それっぽっちの人間だ。でも、いいじゃねえの。そういう人間でしかないもの。そういう風に作られてんだから。俺の意思なんて、意志なんて、一ミリも入り込む隙間はねえよ、この社会にはよ。つまり、俺自身にもよ。そういう風に出来てんだよ。貧乏が美徳だなんて言える人間はもういねえよ。いても笑われて終わりだ。そんなやつなんの価値もねえのさ。カチカチカチカチ、カチカチ山よりひでえ有様で、火ぃ、背負って、背負わされて、走らされてんだよ!そうじゃねえと、なんの価値もねえって。存在と価値をくっつけた糞がどこのどいつか知らねえが、目ん玉くり抜いてやりてえよ、まったくよ」
ハナさんが俺を見下ろしていた。その瞳には本当は何の色も映ってなかったけれど、哀れなフナムシが千切れそうな体をのたうってるのを見ているかのように感じられて、無性に腹が立った。
「アンタはいいよな。ずいぶん高えとこから来て、すぐ死ぬらしいけど、それでもきれいな顔して、強い体で強者ぶってられるんだから。俺もそういう風に生まれたかったぜ。だって、そのままきれいなまま死ねるんだろ?最高じゃねえか。自分が糞そのものみたいな思いさせられないで済むんだから。それでも生きなきゃなんて言われないで済むんだから。天国見てえなもんじゃねえか。ノーって言う様も、様になってるぜ。ノーなんて言ってみたかったわー。はは、こちとらイエス地獄だよ。イエスしか許されねえんだ。おお、イエスってな」
糞みてえなダジャレ。きっとこれが最後の言葉になるのだろう。誰かと話すという意味で。あとは、うーとかあーとか言いながら、消えるのを待つだけだ。
とっとと一人にしてくれ。
けど、ハナさんはずっとそこに立って、海風にそよがれながら、髪の毛をバタバタとさせて言った。
「えっ?」
声が小さくて、よく聞こえなかった。
「あなたは、選びましたか?」
彼女はずっと、俺の目を覗き込んで言った。
「10億上げるから、人類消去させてくれって頼まれたら」
「ふっ、バカにすんな。10億あっても、人いなきゃ紙切れだ。意味がない」
「でも、考えてみてください」
彼女は引かなかった。
「なんでもいいじゃないですか。すべてはフィクションなんでしょう?空想してください。あなたは、10億もらえるって言ったら、人類消去してもいいって、思いますか?自分の欲望を満たすために」
俺は口をパクパクさせた。その後、答えた。
「いや、欲望のためには、殺さない。けど、そもそも違うんだ。欲望を満たしたいから、10億欲しいんじゃないんだ。幸せになりたいから、ではなくて、不幸でいたくない、ほどほどに満足していたい、欠乏感を埋めたいってのがホントのとこなんだ」
「ふーん、10億あったら、欠乏感なくて、そこそこ満足して暮らしてるから、人類消去なんか選ばない、と」
「そうそう」
「つまり、あなたは貧乏でなんか社会の下の方にランク付けされてるから、それが不満で、元々はそこのところから人類消去を選んだということでよろしいですか?」
「よろしいです」
「マジっすか」
そう言って愕然とすると、ちょっとしてからハナさんは爆笑した。文字通りの爆笑で、体中をくねらせたものだった。妙にエロかった。
「いや〜、クズっすね」
涙を拭きながら笑う彼女はやはり美しかった。
この美しさを感じる機能こそが、そもそもの悪の根源なのだ。
彼女を見ていて、ふと得心した。
「えっ!いまさら?」
「いや〜、ここまでとは思ってなかったわ〜」
「ふふふ、いつだって君の予想を裏切る男でありたいからね」
「あと少しでお別れですけどねー」
ハナさんは隣に座って、手を握ってくれた。
「手だけ温めてあげますよ、冥土の土産です」
「ついに惚れたのかと思いました」
「馬鹿ですねぇ」
クスクスと笑った。
どういうわけか空気がほぐれたので、その後も終わりまで色々話した。
独りよがりというけれど、本当に他者を知れる人なんていないということ。本当に他者を知れるというのなら、人間なんて単位は必要ないということ。誰もが本当は独りぼっちだけれど、それに気づくと生きていけないから嘘をついているということ。
本当は、誰にだって優しくしたかったということ。けれど、それだけは絶対に許されない社会だったということ。人間を嫌いになるようにデザインされた社会だったということ。不和こそが、この社会の理念だったということ。
本当は、何が本当かなんてもうわからないけれど、人類は消えたほうがいいと心の底から思っているということ。むりくり人間賛歌とか、現世肯定とかしなきゃってえらい人が言ってるけど、ポカンとしてしまうこと。人間って良いなぁ、なんてマジで思っている奴は本物の馬鹿だと思っていること。どう考えても害虫や害獣の類は人間でしかなくて、その傲慢さに吐き気がすること。同じ人間であるってことが嫌で、子どもの頃息を止めて自殺しようとしたこと。けど、臆病で卑怯な性質だから、できなかったこと。
やっと消えることができて、うれしいということ。
そういうことを海を見ながら穏やかな気持ちで話した。
「あっ、そうそう。消えた人たちは全員データ上で生きて、その後も人類が滅びるまでエミュレートしますよ。言うの遅くなりましたごめんなさい」
「うぉい!結構重要な情報じゃね?それ?」
「だから謝ってるじゃないですか。なんですか?それとも罰としてセックスさせろとか言うんですか?あと数分ですけど、あなたならできるのかもしれませんね」
「はっ?はあっ?何言ってんの?足りねーわ。蛇か俺かっていうぐらい長いっつーの」
「キモ」
「やめろや。女子からのキモはマジで傷つくから。一生尾を引くから」
ああ、この時が永遠に続けばいいのにと思った。
カウントダウンのようなことはしなかった。さよならも無くて消え去りたかった。そうしたら、永遠だって勘違いできる。
「それで、あなたはデータ上で生きたいですか?最後のサービスです」
選ばせてくれるらしい。
「う~ん、いやぁ、良いですよ。完全に消してください」
「わかりました」
これはだけど、最後の言葉っぽいなぁ、と思った。そろそろ終わりかなぁ。
「あっ、そうそう、俺、山田和人って言うんですよ」
「なんですか?急に」
ハナさんが怪訝な顔をする。
「いやー、そういやハナさんの名前聞いたのに、俺の名前言ってなかったわって思って。ちなみにナンパ名はタケシでした」
「どうでもいいわー」
どうでもいい。どうでもいい会話ができて良かった。
波の音が静かに内耳をくすぐる。
「おやすみなさい」
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