第9話 ステイ
ホテルは念のため一日ステイを選んだ。ボタンを選ぶ手が震えた。彼女はホテル行こうって言ったけど、こういうところは初めてのようだった。
「えっと、お酒とか飲みますか?」
興味深げに周囲を見回していたから、なんとなく声を掛けてみると「はい」とだけ答えた。
軽めのジュースみたいなお酒を二本自販機で買った。
部屋はそれなりのグレードのところで、真紅の絨毯と壁紙で、暗い照明がお洒落を通り越して扇情的だった。お金を払わないと施錠されて出られないタイプのところというのも、何かエロい気持ちにさせられた。
けれど、いきなり襲いかかることなんて出来やしない。
俺はベッドに座り、彼女も座るよう促した。彼女は素直に従った。
とても余裕ぶっているつもりだけれど、緊張がダダ漏れなのは自分で感じた。言葉がうわずる。
「あっ、そうそうそう!シャワー入るよね?ついでにお風呂も入れちゃいましょうか?長居するかもしれませんものね!」
タメ語と敬語が入り混じり、自分の言葉が自分のものではないかのようだった。
俯瞰というよりも、乖離している感じだった。意識も、言葉も。
だって、すごい、現実感のなさ。なんでこんなことになってるんだっけ?どこに行った、俺のこれまで染み付いてきた貧しさゆえのリアリティ。こんなゴージャスな体験があっていいのか?非日常が過ぎる。
でも、そうだ、これだ、これ。これこそ望んでいたものだ。
恋愛という特にマシなクソゲーに、求めていたものだ。
求めしものは来たれり!
俺は提案した。
「い、一緒に入りますか?なーんて」
なーんて、は完全に俺の弱さだった。
「いいよ」
彼女はいいよ、と言いました。簡潔に。
彼女は服を脱ぎ始めました。なぜかウェイトレスの格好のままだったので、なんだか惜しい気がしました。
「待って」
けど、俺は何かこのままではいけない気がした。
「よければ、脱がしていい?」
「いいよ」
ヤッフー!!!
言ってみるもんだー!
「じゃあ、失礼します」
俺は彼女の目の前に跪いた。
手がウケるくらいに震える。さっきのボタンの比じゃない。
「だいじょうぶ?」
彼女がまた赤ん坊のように無垢な表情で問うてくる。
「あたりきっす!」
俺はなぜかビッ!って親指を立てた。
「ふっー!」
一回深く息を吐いてから、作業を開始した。
まずはエプロンだ。エプロンのひもはすでに彼女が解いているから、あとはクロスした状態のひもを二本のひもに離すだけだった。
だけだったけど、これがまた、ヤヴァかった。
当然前から行くから、彼女をまるでハグするかのように接近しなければならなくて、ほぼゼロ距離になった。肌に触れるか触れないかのぎりぎり。一番興奮する濃度。瞬間甘いパンケーキのような香りがした。
お次は首にかかったエプロンを、くぐり抜けるように彼女から取らなければならないスリリングが待っていた。首の辺りの産毛がわずかに指先を撫でてきた。息を殺して、ミッションクリア。
「んぐっ」
思わず喉がなってしまった。
「あはは、そうだ!お酒飲みますか!」
照れ隠しにお酒を開けた。彼女の分も開けて手渡す。
「チアーズ」
言ってから恥ずかしくなる乾杯を吐きながら、俺は一気に飲んだ。
「ぷはっ」
そういえば一杯八百円のブレンドは一切口をつけずに出てきてしまったな、と頭によぎった。
まぁ、そんなことはどうでもいい。苦い思い出なんて必要なかったんや。俺に必要なのは、勝利の美酒だったってわけだ。まったく、そのとおりだろ。目の前の彼女を見て、ますますそう思う。彼女は可愛らしくも、一口くぴりと飲んだ。そうして目を白黒させた。
「ハハッ、もしかしてお酒はじめて?」
彼女はこっくりと頷いた。
可愛い。多分年上だと思ってたけど、もしかしたら違うのかもしれない。それとも幻の生き物のようなお嬢様なのだろうか。
とにもかくにも、初めてまともに意思疎通のようなことをした気がした。
今までは一方通行で急な展開だったから。
正直、ためらいも感じる。このまま一気に進むのはもったいない気もする。かといって、こんなチャンスは二度と来ない気もする。しかも濃厚に。
その時、サイバラさんが以前言っていたことが浮かんだ。
『据え膳食わぬは男の恥、とか言うじゃん?』
『はい』
『あれは間違いだと思うんだよね』
『そうなんですか?』
『うん、場合によりけりだと思うけど』
そうだ。いつだって、場合によりけりだ。そして、あらゆる場面に細かく対応してこそだ。
『だから、俺は相手に必ず言うんだ』
その時教えてもらった言葉を、俺はそのまま彼女に言った。
「もし、嫌だなって思ったらいつでも言って。途中でも、必ずやめるから」
彼女の目を見て言えた。
彼女はこっくりと頷いた。ほんの少しだけ、微笑んで。
俺はそれだけで、とてもうれしくなった。
お酒を置いて、「じゃあ」と言って跪き、エプロンの下のシャツのボタンを外しにかかる。
小さめのボタンでこいつはまた手強そうだ。
あれ?と思った。
彼女の手が震えている。お酒の缶を持った手が、最初は小さく、けれど次第に大きく。
怖くなってしまったか?
不安になって、彼女の顔を見上げた。
「えっ?」
彼女は、獣のような、鬼のような表情になっていた。
「えっ?」
もう一回俺は声を上げたが、無意味だった。
次の瞬間、視界が歪んだ。ふっとばされて、壁に叩きつけられていた。
なぜ?いや、どうやって?あんな細い腕、足のどこにそんな力が?
あえぎながら目の端に映った彼女の手足に驚愕する。
まるでアナコンダのようにくねくねと野太い何かが手足から生えている。
なんじゃらほい?
素っ頓狂な状況に、場違いな疑問符が浮かぶ。
息が止まり、動けない。
動けば殺される。だって、見ろよ、あの顔!さっきまであんなに可愛らしくて天使以上の何かだったのに、口が耳まで裂けて、よだれを垂らし、肉を引きちぎるためのギザギザ歯。それが、こちらを、向いている。獰猛な目を輝かせ、獲物を射抜いている。獲物は俺だ。
逃げなきゃ。
そう思うけど、動けない。かろうじて後ろに下がろうとするけど、壁だ。
ああ、まるで映画の中の愚かな女優のようだ。
「ぎしゃあ!るるルル」
片耳かおかしい。遠近感が狂って音が聞こえる。近づいてくる。
彼女が、俺にまたがる。
熱い吐息、生臭い胃液の臭い。さっきまでの芳しい香りはどこ?
もう、ダメだ。
ダメか。
ここで死ぬのか。
そうか。
まぁ、いいか。
そういや人生捨て鉢だったわ。
三十よりだいぶ早いけど、大差ない。むしろ、長く苦しまないでお得かも。
それなりにナンパしてからは楽しかったし、まぁ、いいか。
最後は最高の女とヤれる寸前だったわけで、まぁ、俺にとっては上出来だったな。
ラブホで死ぬとかよくない?
けど、あれだな、せっかくだし、最後までライブを楽しむか。
俺は彼女をハグした。
彼女のよだれが肩にかかる。どっからそんなに出るんだよ。とろとろした感覚が服越しにも伝わる。
匂いは、もう臭いという感じだ。
キスしてみる。ほっぺにしたつもりだけど、歯に当たった。耳まで裂けてるもんだから。
耳にはずっと、グルグル音が響いてくる。今や骨伝導だ。遠くない。すぐそばに聞こえる。
「ありがと、夢見させてくれて」
俺はお礼を言った。馬鹿な話だけど、マジだった。
俺なんかが一生お近づきになれるわけもない。そう思わせる相手だった。
すぐに取り込まれてしまうのだ。美というものに近づくと。醜いものの俺が近づける相手じゃないって、わかるのだ。
ふさわしさが足りない。わきまえなきゃな。
なんかそういうくだらない声が塊となって、俺を打ち砕く。
だから、ありがとう。
告白させてくれて、最低の告白だったけど、うん、最初の告白は良かったな。
次の告白はクズだったわ。なんだよ、セックスしてくれって、脅迫かっつーの。
けど、まぁ、いいよ。あれが精一杯だものね。踏み切ったのは、良かったぜ。殺される結果に終わってもね。
彼女が大きな口を開ける。俺の頭をまるまる噛み砕けてしまうくらい大きく。
彼女の口の中でお陀仏。悪くないね。
ふと、頭の隅っこで、くだらねえ人生だったなって声が聞こえた。うるせーっつーの。
「腹壊すぞ」
彼女の口が閉じて、その中に入ってる俺の頭が噛み潰される一瞬、男の声が聞こえて、彼女の頭が吹き飛ばされた。
彼女の牙が俺の頭を削ってく。
包帯が取れた。
朦朧とする意識の中で、俺は見た。
頭の傷から野太い腕が出て、その手にはトンカチが握られていた。
つーか、なんだよ、それ。なんで、俺の頭から腕が出てるわけ?
俺は意識を失った。
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