ログイン19 暖かい部屋で震える両手
「まず、大前提としてお聞きします。この世界は、良くも悪くも神の洗礼によって支配されている。これは承知の事実でしょうか?」
「神の洗礼・・・? あー、あれかな、ノアの大洪水の事を意味しているのか?」
「ノア? そのような言葉は聞いたことがありませんが、起きる事象としての認識は・・合っています。——ザラナ、あなたはノアという単語を聞いたことがあるかしら?」
「いえ。私もそのような言葉は初めて聞きますね。この世界にそのような単語は、存在していないように思いますが」
「すまん。話の腰を折ってしまったようだな。ノアについては後でいいから、話を進めてくれないかな」
神の洗礼。ゴブリンキングも口にしていた言葉であり、この世界の根底に強くこびり付いていることは間違いない。しかし、何度その単語を聞いても、反対側の耳孔から通り過ぎていく感覚に襲われる。現実世界で何度も目にし、耳にしてきた言葉が離れないのだ。
ノアの大洪水というワードが頭に刻まれ過ぎているのかもしれない。そのため、神の洗礼という言葉に脳内で置換されるには、まだいくばくか時を要するようであった。
「分かりました。では・・・最初に王国の話をしましょうか。その流れで、神物についてもお話しします」
「あぁ。それは助かる。俺に最も欠けている知識の一角を担っているやつだ」
「一度聞いただけで、全てが分かるほど単純ではないです。でも、少しでも頭に止めるよう努めてくださいね。そもそもこの世界で、人類と部類される二足歩行を可能とする、我々が安全に住める場所は五つしかありません。それらは、それぞれが王国と呼ばれ、人類最強の王達の指導の下、それぞれ統治されています」
「人類・・・最強・・・!? 唆るな、その響きは」
王国の真髄の話とは逸れたところにある話に、礼央は胸を高鳴らせる。興奮のあまり、緩んだ口元から白い液体が顔を出しそうになったほどだ。いや、顔を出すどころか、覗かせ始めていた・・・かもしれない。いち早く、溢れるそれに気づいた礼央は、さっと右手で口元を隠し、甲を口元に触れさせた。
冷たい感触が手の甲を刺激する。同時に、心の奥底から湧き上がる、謎の嫌悪感も。だが、それを表立って顔に出すことはなく、努めて平穏を装った。
人類最強——、それは今まで礼央が常に肩に乗せていた称号でもある。以前は、それを特に固執していなかったはずだが、ゲーマーの性というべきだろうか。他の人が、その肩書きを名乗っているのを聞くと、心が落ち着かなくなる。奪われた瞬間に、その称号に酔いしれていた事を痛感させられるようであった。
「話を続けていいですか?」
「・・・そうしてくれ」
呆れるような目線を向けながら呟く目の前の少女を、礼央は恥ずかしさのあまり視線を逸らすことしかできなくなかった。
「続けますね。五つの王国は、基本的にはそれぞれの国の名称を秘匿しています。その理由は分かっていません。昔の古文書には名前が出ていた時期もあったんですけどね。今では、その国に住んでいる国民ですら、その名前を知らないという有様です」
「うん? それはおかしいぞ? だって、俺が倒したゴブリンキングと初めて誘いの森で出会った時。あいつは確かにこう口走った。『ここは、ホール王国の王、ガルシオ様の所有地だぞ』ってな!」
困惑のあまり、言葉を発する声が大きくなっていたようだ。目の前の少女は、身を乗り出してまで、真剣に話す礼央の姿に萎縮しているように見えた。その姿を視認して、ふと我に帰り、すまない、と口にすると座っていた場所に深く腰をかけ直した。
「しかし、奇妙なこともあるもんですね・・・ビエラお嬢様」
礼央を他所に、視線をかちあわせ合う付き人とそのご主人。交錯するそれに、どのような意味合いが込められているのか、礼央には分からない。だが、二人が心穏やかでないことだけは、見て取れた。
経験値の差。とでも言うべきだろうか。付き人の彼には、先ほどと変わったところは一つもない。背筋を伸ばし、凛とした風格を常に醸し出している。一方で、隣のお嬢様はどうだろうか。顔に浮かぶ表情には、おかしなところは伺えない。しかし、太過ぎず、でも細すぎることのない太ももの上で、行儀良く握られている彼女の両手。
それだけが、僅かに震えていた。比較的暖かな部屋の中にも関わらず、落ち着きを失っているそれは、礼央の目からしても、異様として映るのであった。
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