4−6

 情報空間の〈海〉と物理世界のそれとでは、やはり事情が異なる。わたしが水泳の技術を持っていないせいもあるが、それ以上に、幼い頃に溺れた記憶が恐怖を喚び、体を硬直させるのだ。

 クラウスの肉体制御により溺れない程度の泳ぎはできる。しかしこれは、海難事故に遭遇した際に生命維持するための、最低限の機能に過ぎない。自分に殺意を向けてくる相手の銃弾から逃れるためのものではない。消費酸素が最低量に抑えられているからいいものの、迂闊に水面へ出ることができない以上、このままでは早晩息を詰まらせることになる。

 窒息への恐れの奥から、飛び込む直前の記憶が蘇る。ミヅキ氏。彼女の姿を、自由の利かない首をどうにか巡らせて探す。

 次第に目が慣れてきて、水中に射し込む青白い月光が、カーテンのように揺れているのが見える。その中に彼女の姿はあった。肩口には黒々とした靄が立ちこめている。海底火山を思わせるそれは、恐らく血だ。

 わたしの意思を読み取ったクラウスが、ミヅキ氏の方へわたしを向かわせる。沈みゆく彼女の体を確保できたのはよかったが、海面に出ることができない状況は変わらない。頭上にはボートのものらしき残骸が漂っている。その向こうを、ドローンの機影が旋回している。

 見つからずに岸まで泳ぎ着けるだろうか。酸素が抑えられ、鈍くなった頭で考える。ただ泳ぐという以外、妙案は浮かばない。

 ぼんやりと自分の向かう方向を見ていると、ただ広がっているように思っていた闇が、流れるように動いていることがわかってきた。そこでは巨大な物体が、複数のクジラたちが泳いでいた。見回せば、彼らもまた、わたしとミヅキ氏を取り囲むように周遊している。こちらには〈捕らえる〉のではなく〈包み込む〉という優しさが感じられた。彼らはドローンからわたしたちを守ろうとしてくれているようだ。

 やがて、群れの中から一頭のヒレナガゴンドウがこちらへやって来た。少女を引き取りに来たということは、その穏やかな所作からわかる。わたしは彼/彼女との間に接続を開き、端末のストレージにいる少女の意識を引き渡す。

 少女の出て行く感覚が伝わってくる。泳いでいく後ろ姿が、視覚的ではなく概念として頭に思い浮かぶ。

『待って』わたしは彼女に内省で声を掛ける。『〈泳ぎ方〉を忘れてる』

 少女は肩越しに振り向き、小さく首を振った。

『この子の肉体はが担う』と、わたしと向かい合うヒレナガゴンドウが言った。『この子の肉体は失われてしまった。この子はとなり、生きていく。泳ぎ方は、が知っている』

 群に属する強化クジラたちで少女の意識を分散保有するというのだ。つまり、この群全体が少女の肉体となるということだ。意識と体が引き離され、体の方が破棄されてしまった以上、そうする他に方法はない。

『その力はあなたが持つといい。この子もそれを望んでいる』

 概念としての少女が頷いた。

『ありがとう、ナギ・タマキ』と、クジラは言った。

『お礼なんていい』わたしは答える。『わたしたちはむしろ、謝らなければならない』

 クジラの大きな眼と視線が重なった。彼/彼女はゆっくりとまばたきをした。

『やはり、彼女の言った通りだった』

 その言葉には、二日前の晩に座礁していたクジラが言ったことと同じ響きがあった。

『彼女が、あなたのことを教えてくれた。あなたなら力になれると。だから我々は

 泳いでいくシロイルカの後ろ姿が見えた気がするが、すぐに意識がぼやける。酸素が足りない。それでもわたしは訊ねる。

『あの人は、今どこに?』

『わからない。ほんの一時、行動を共にしただけだ』

『そう』頭の中のシロイルカは、霞の向こうへ消えてしまう。『もし会えたなら、わたしがよろしく言っていたと伝えてもらえる?』

『伝えておく』

 ヒレナガゴンドウは身を翻し、仲間たちの元へと戻っていく。

『空の連中は我々が引きつける。その隙にあなたたちは陸へ』

『ありがとう』

 クジラの群れが沖へ向かって泳いでいくのが、月光のカーテン越しに見える。彼らがすっかり行ってしまうと、水中は井戸の底のように静まりかえった。

 ドローンの機影がないことを確認して、水面から顔を出す。空気を欲していた器官と、それを処理する器官との折り合いがつかず、わたしは大きく咳き込んだ。どうにか呼吸を整え辺りを見回すと、明るくなり始めた水平線で、銃火らしき光の瞬きが見えた。わたしはミヅキ氏を抱えたまま、岸へ向けて泳ぎ出した。

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