4−4

 慣性など働いていないはずなのに、物理世界の肉体に戻った瞬間は前にのめった。踏みとどまろうとしたが、脚の感覚が一拍遅れ、やはりバランスを崩した。

 濡れたコンクリートに倒れたところへ、手が差し伸べられる。

「大丈夫?」

 わたしはミヅキ氏の手をとった。

「そちらの仕事はいいんですか?」わたしは彼女の助けを受けながら立ち上がる。

「ここでわたしがするべき仕事は、こちらの方だから」彼女はコンソールに戻り、キーボードを叩き始める。「他にすることなんてないわ。乗って」

 促され、わたしは桟橋を渡る。

 ボートに乗り込んでから、格納庫内の空間を把握する。まず白いプレジャーボートが目に付くが、こちらは整備中なのか陸揚げされている。着水しているのは小型のモーターボートが二艇。そのうちの一つにわたしたちは乗り込んだ。

 前方のシャッターが軋みながら上がっていく。後部の電気モーターが作動し、ボートは格納庫を出る。操作はミヅキ氏で、手慣れたものだった。彼女は眼鏡——単なる眼鏡ではなく端末だった——にソナーを映し、目指すべき方向を随時確認していた。

 見上げる空で傾きながらも煌々と光る月に、一瞬だけ目が眩む。同じぐらい目映い光が、海面でも揺れている。双子の月の片方が、水の中に囚われているようにも見える。

『ちょっとナギ、狭いんだけど』クラウスの声がした。

 連れてきた少女の意識データは端末のストレージに入れてある。そこは本来クラウスの領域であるため、リソースを共有することになる。一人だけだったら寝起きに困らない広さの部屋に、無理矢理もう一人押し込んだ形だ。

『少しの間だから我慢して』

『これじゃまともなサポートはできないよ』

『効率的な処理方法を考えるいい機会じゃない』

『優しくないなあ』

 後ろで笑う声がする。ミヅキ氏だ。

「仲がいいのね」

 彼女の眼鏡型端末に、わたしたちのやり取りは聞こえていたらしい。

「もしかして、最初の時から全部聞こえてました?」

「ごめんなさい。あなたが信頼できる人か確かめたくて」

 ローカルの内省会話を、それも軍のものを傍受するのは、並の技術できることではない。

『その人、ちょっと只者じゃないよ。ここを失業したらうちに入ってもらった方がいいかも』

 クラウスを諫めようとするが、それも聞かれるのだと思うと言葉が出ない。ミヅキ氏は「ありがとう」とまた笑った。

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