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 波は穏やかで、海面は均したように平らに見える。風はない。空は晴れ渡り、時々思い出したように雲が水平線の向こうまで浮かんでいる。

 真っ青な空を、旋回するドローンの影が過る。テントの中でモニターに向かう観測員が言う。

『海には何もいません。鰯の子一匹も』

 水平線を見つめていた所長が観測員に言う。

「島の全方位に範囲を広げて」

「やっていますが、それらしい魚影は探知できません」

「消えた、ということ?」

「状況からしてそのようにしか……」

「あの」と、わたしは彼女らのやり取りに割って入る。「出番がないようでしたら、一度部屋に戻りたいのですが」


 ダイブ。少女がいる海底を目指す。

 クラゲがショートカットを作ったので、昨日のように人格のいくらかを失うような危険は冒さずに済む。わたしは、自分に関する認識と記憶の一切を保持したまま、少女の元へ向かうことができる。

 海底には少女の姿しかなかった。クラゲの正体は、まだ物理世界でのだろう。

 白い砂の上に降り立つ。シーソーに跨がった少女がこちらを向く。

 はっきり言って、子供は苦手だ。どういう風に声を掛ければいいかわからない。気さくに「ハーイ、元気?」なんて言えない。まあ、それは相手が子供に限ったことではないが。

 相手は人間ではなくクジラだと考えても、気まずさを和らげる手助けにはならない。何らかのコミュニケーションが成立する時点で、わたしには緊張の対象となる。

 少女は真っ直ぐにこちらを見つめてくる。深い、藍色の眼。

「泳ぎの練習、しようか」自分でも、話し方がぎこちないのがわかる。非損耗率が指を折るような速さで減っていく。思えば、クジラに泳ぎ方を教えるなど妙な話だ。〈釈迦に説法〉を地で行っている。もっともクラゲ曰く、肉体から切り離されて久しい彼女は泳ぎの感覚を失っているという。そんな風に感覚が早く壊死するよう処置を施したのは、誰あろう研究所の人間たちだ。

 少女はシーソーの方へ顔を戻す。小さな背中がこちらを向く。警戒、もしくは拒絶。あるいはその両方。非損耗率が更に減る。

 わざわざ泳ぎ方から教えなくても、彼女の意識データを誰かが持ち運べばよさそうなものだ。実際わたしはそうクラゲに言った。もちろんそれも可能だが、彼女は少女をあるべき姿で海に帰すことを望んでいた。それがせめてもの贖罪なのだと。それに現実問題として、少女が一歩たりともこの海底から出たらすぐにアラートが鳴る仕組みになっており、情報空間での身動きに慣れていないクラゲ一人の力では少女を外界へ連れ出すことは難しいとのことだった。彼女にできることといえば、せいぜい少女の歌を中継する形で海へ流し、仲間たちを呼び寄せるのが限界だった。顔のないクラゲは、その言葉の端に忸怩たる思いを滲ませていた。

 彼女ができないことを、わたしならばできる。少なくとも、そう期待している人間が一人は存在する。その期待に背きたくはない。

 クラゲが来るまで時間を潰している余裕はない。残された時間は四十八時間を切っている。こちらでは物理世界よりも体感が長いとはいえ、厳重な監視の中を外まで泳ぎきらなければならないとすれば、一刻の猶予もなく練習する必要がある。

 とはいえ、彼女を担いで無理矢理練習をさせるわけにもいかない。相手の領分へズカズカ踏み込んでいくような勇気は、わたしにはない。

 なら、できたのかもしれないが。

 いや違う。彼女はもっと自然に、そういうことをするはずだ。

 わたしの中へ入ってきた時のように。

 わたしを〈海〉へ導いた時のように。

 砂を踏み、シーソーの反対側へ回り込む。上がったままの板に手を掛け、力を加える。大した抵抗もなく板は降りてくる。

 少女が口を半分開けたままこちらを見ている。わたしは腰の高さまで降ろした板に跨がる。地面を蹴ると、簡単に重力を振り切ることができる。向かいで少女が同じ動きをする。真似る、というようにぎこちないが、上手くいく。今度は彼女が跳ね上がる。

 同じことを何度も繰り返す。何度も、何度も、何度も。

 繰り返すごとに、彼女の瞳に光が萌してきた。虚ろだった顔には、明らかに表情らしきものが現れるようになった。

 何度目かに地面を蹴った時、彼女は板の持ち手から手を離した。小さな体が空中へ——もとい水中へ(本当の水ですらないが)に投げ出された。彼女は、何が起きたかわからないといった顔で宙を漂う。

 わたしも板を離れる。少女の元へ泳ぎ寄り、小さな手をとる。

「これが、泳ぐということ」わたしは言う。「あなたは今、泳いでいる」

 少女の瞳の奥に光が灯った。凍えるような洞窟の奥で石を打ち続けようやく点火したような、小さいながらも力強い光だった。

 わたしが手を離すと、彼女は身を翻した。水棲生物特有の身のこなしだ。だが、体をしならせ泳ぎだそうとするものの、なかなか前には進まない。本能の部分には電気が通ったが、技術の部分がまだ通電していないといった感じだ。ここに電気を通すのがわたしの役目だ。

「大丈夫。一緒に行こう」

 わたしは、沈みながらこちらを見上げてくる少女に手を伸ばす。

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