2−7

 白い砂の敷き詰められた地面。海底。

 仄かな重力に引き寄せられ、砂の上に着地する。体は軽いが、先ほどまでの浮遊感はない。月面にいるのはこんな感覚なのだろう。

 辺りの色は藍とエメラルドグリーンを行ったり来たりしている。あまりに静かで、色の遷移の他には時間が静止しているような印象を受ける。

 白い砂は日射しを受けたように眩しく、どこまでも広がっている。

 わたし以外には誰もいない。サメたちの姿もない。わたしは先ほどの声の主を探す。

 後ろで、金属の軋むような音がする。

 振り返ると、古いシーソーがあった。支点の金属が錆び、板も所々が欠けている。

 シーソーは右に傾いている。そちらに白いワンピース姿の少女が座っているからだ。ホログラムで見た、あの少女が。

 少女は握り棒を掴んだまま、俯いている。こちらが近づいても振り向かない。わたしは、彼女の小さな肩に手を伸ばす。

「触らないで」

 耳元で聞こえた女性の声に、手が止まる。声のした方を見ると、クラゲの形をした発火体が浮かんでいる。人の形を作るよりも容易にできる、初歩の型だ。

「その子は曖昧な存在なの。触れたらあなたと癒着してしまう」クラゲが言った。わたしをここへ導いた声は彼女だ。

「あなたは?」

「この子の保護者とだけ言っておくわ。一応、人間。今はそれ以上教えることはできない。あなたはあの、流れ着いたヒレナガゴンドウの声を聞いて来たのでしょう?」

 わたしは頷く。

「その子を海へ帰すようにと頼まれました。次の満月の晩までに」わたしは正直に言った。ヒレナガゴンドウとの交信を知られている以上、隠しても仕方がない。

「彼の言葉を疑わなかった?」

「信じるに足る理由がありましたから」

「そう」クラゲの声が、安心したように柔らかくなる。だが、それもわずかで、またすぐに元の硬さが戻ってきた。「彼の言った通りにしてほしい。協力、してくれるわね?」

「その前にいくつか教えてください」と、わたしは言う。「この子は何者なのですか? あのクジラたちとの関係は?」

「あなたは〈モントリオール条約〉をご存知?」

「自動兵器による殺傷行為を禁じた条約、ですね」

 我が国も批准しているこの国際条約では、AIが制御する兵器の使用が禁止されている。元は人間に対する非人道的な武力行動を防ぐための、つまりは人間を守るための条約だったが、諸々の理由で戦力を自動兵器に頼っていた国々(ここに我が国も入る)が屁理屈をこねくり出して、人間の意識を兵器に載せるようになった。結果、実戦の場でAIが人間を殺すことはなくなったが、機械の体に乗った人間が人間を殺さなければならない場面が多くなった。

「『人間の意識ならば問題ない』というのが第一の拡大解釈だとすれば、『AIを使わなければ問題がない』というのが第二の拡大解釈だった」

 AIでなければ——すなわち、生物であればということ。ここでいう生物とは、遺伝子操作で知能を強化された動物たちのことだ。

「この子は、その第二の拡大解釈の犠牲者」と、クラゲが言った。

「武装クジラの、意識」わたしは、シーソーに座っている少女を見た。

「群れの中でまだほんの子供だったこの子が捕らえられ、意識を引き剥がされたの。今、この島の周りを泳いでいるクジラたちはこの子がいた群れの仲間。彼らは、この子を取り戻しにやって来たの」

「待ってください」わたしは彼女を遮るように言った。非損耗率が二ポイントも減った。「その武装クジラたちは意識を切り出すために作られた個体なのですか? そんな、意識の養殖みたいなことをするために」

「技術的にはとうの昔に可能となっているわ。あなたがここにいるのと同じ原理ですもの。問題は、倫理の部分だけ」

「そこが一番重要だと思いますが」今はクジラで済んでいるというだけの話に思えてならない。

「だからこそ、この子を仲間の元へ返してあげたいの。元の、クジラとしての命に。今、この子がいなくなれば、研究はストップせざるを得ない」

「また同じようなクジラをどこかで捕まえてくるだけではないのですか?」

「そんなことはさせない。この事実を以て、広く世の中の倫理審査に諮るわ。その前に、今はこの子をここから逃がしたい」

 わたしはため息をつく。〈件〉や上官が、島が襲撃されている原因をわざわざ説明しなかった理由がわかった。後ろ暗い事案なら、事情を知る人間は少ないに限る。

「わかりました、協力します。わたしたちの善悪の基準は、たぶんそれほど離れてはいないようですし」

「感謝します。来てくれたのがあなたでよかった」

 彼女の言葉で、浜でヒレナガゴンドウに言われたことを思い出した。

「わたしをここへ呼んだのは、あなたなのですか?」

「わたしが?」クラゲが驚いたような声を上げた。発火が一度に強くなったから、嘘や誤魔化しはなさそうだ。「まさか。〈件〉の判断を操るなんて、まともな発火体も作れない人間にできるはずがないわ」

 それもそうだ。では、どうしてあのヒレナガゴンドウはわたしの名前を知っていたのか。

 考えても、答えにはたどり着けそうにない。

「それで、わたしは具体的に何をすればいいのですか?」

「この子に泳ぎ方を教えてほしい」と、クラゲはシーソーの少女を示して言った。「そして一緒に泳いで、海まで導いてほしい」

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