2−3

 疎らながらも人の流れがあった。それについて行くと、建物を出て、敷地の外へも出ることになった。案内人の注意事項が頭をよぎったが、人目もあるので大丈夫だろうと判断した。

 遠くの空には橙色の夕暮れが残っているが、辺りには夜の闇が降りていた。周りを歩く人の灯すペンライトを頼りに、海岸へと降りる坂道を行く。坂の先には浜辺が広がっており、濃紺の波が打ち寄せていた。その波打ち際に白い光の塊が浮かんでいるのが見える。投光器だ。周りにできた人垣に、わたしも加わる。

 目が眩むほどの光の中に、長さ五メートルほどの大きな物体が転がっている。その表面では、テラテラと反射した光がわずかに伸縮している。生きている、と思うや、それが一頭のクジラであることがわかる。というより、わたしはようやく事実を認める。

『例の、武装クジラのようだね』と、クラウスが言う。脳波のパターンが武装クジラのそれと一致するのだという。

『種類は?』

『ヒレナガゴンドウ。ヒトの二倍の新皮質を持っていて、巨大な群れを作るほど社会性の高いクジラだよ。野生のゴンドウクジラはよく集団座礁をすることで知られている。これは高い社会性のために、一頭が座礁すると他の仲間たちもつられてしまうからだと考えられている』

『ここに一頭しかいないのは、脳が強化されていて他の個体に自制が利いたから』

『そう考えるのが妥当だね』

 ヒレナガゴンドウの、濡れた小さな瞳が目に付く。どこを向いているかはわからないが、視線が重なったような感覚があった。

 その瞬間、キン、と甲高い音が耳を突いた。

 鼓膜から脳までを串刺しにするような音。わたしは咄嗟に耳を押さえる。

 音は断続的な耳鳴りになる。その奥から、囁きのようなものが聞こえてくる。

 意識の焦点を当てると、囁きは鮮明になってくる。明確に声だということ、それから、言葉を構成していることがわかる。

『武装クジラからの交信だ』クラウスが言う。『短距離通信を直接投げてきている。クラックされるかも』

『構わない。〈ドリトル〉で翻訳して』

『聞こえるか』クラウスとは別の、老人のようなしわがれた声がわたしの頭に響く。『聞こえるか、ナギ・タマキ』

『あなたは、誰?』わたしは問い返す。『どうしてわたしの名を?』

を、海へ帰してほしい』こちらの問いには答えず、武装クジラは言った。『どうか、あの子を』

『あの子?』否応なく、部屋で見たホログラムの少女が目に浮かんだ。『は、あなたたちと関係があるの?』

 するとクジラは、わたしには発音できない言葉を発した。根拠はないが、名前のように聞こえた。

『あなたにしか頼めない。次の満月の晩、は迎えに来る』

 わたしが訊ねる前に、クラウスが月齢の一覧を視界拡張に提示してくる。次の満月は二日後。

『〈あの子〉について教えて。彼女は今、どこにいるの?』

『この島に捕らえられている。歌が聞こえる。我々を呼ぶ歌——』

 横たわるヒレナガゴンドウとわたしの間に作業服姿の人影が割り込んだ。かと思うと、ドン、という重い物理音声が辺りに響いた。波に洗われていた尾鰭が一旦跳ね上がり、再び落ちた。人影は肩掛けのバッテリーと、そこからコードで繋がったオレンジ色の器具を両手に持っていた。除細動器に見えるが、今おこなわれたのは全く逆のことだろう。

 他の人影がいくつも動き回り、クジラの運搬作業が進められていく。照明を反射する体の表面とは反対に、クジラの瞳には何の光も宿っていなかった。

「西棟へ運んで。解剖班は準備を」所長の声がした。「それから、他にも流れ着いていないか周囲の捜索も」

 照明の向こうの暗がりに薄らと浮かぶ白衣が見えた。わたしはそちらへ近づいた。

「あなた」所長が気づく。「どうしてここにいるのです。居住棟の外へ出ることは禁止だとお伝えしているはずですが」

「どうして殺したのですか?」謝罪も弁明も浮かばなかった。断ち切られたクジラの声が、耳の裏で繰り返し響いていた。

「襲撃に対する当然の防御行動です。島を襲う武装クジラを海へ返せと言うのですか?」

「彼は座礁していただけです。少なくとも、殺すことはなかったはずです」

「純粋な野生動物なら、そうでしょうね。けど、あれは人為的に強化された兵器よ。ドローンやミサイルと同じ武器。情けを掛ける方がナンセンスだわ。ミヅキ」

 闇の中から湧き出たように、黒縁眼鏡の女性が歩いてきた。

「潜量士さんを居住棟へお連れして。それから、自身の役割と権限についてもう一度詳しくご説明して」

「承知しました」

 ミヅキと呼ばれた女性は頷くと、わたしを促して歩き出した。彼女の背中と所長の眼差しから、ついて行かないわけにはいかなかった。

 浜辺を去り際、ビニールシートに載せられるクジラの姿が垣間見えた。

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