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波打ち際から少し歩いた岩場の陰にミヅキ氏を横たえる。出血は右の肩口からで、何かが貫通した痕がある。幸い動脈は傷ついていない。わたしはクラウスの提示した手順に従い、彼女に応急処置を施す。
一通り済むと、どっと疲労が湧いてきてその場に座り込んでしまった。体中が鉛になったように重い。
水平線の向こうから朝日が昇り、辺りを暖かな日で照らしていく。わたしも濡れそぼった体を温められ、ようやく動けるようになる。ミヅキ氏の呼吸が穏やかに繰り返されていることを確認し、腰を上げる。
研究所までの道は静かで、恐らくこの島で長い間繰り返されてきた〈いつもの朝〉と同じものなのだろう。だが、草花の揺れる音に混じって無骨なエンジン音が聞こえてきた。海へ目を向けると、一隻のプレジャーボートが白い航跡を引きながら沖へ向かって行くのが見えた。また、研究所の門を潜ろうとしたところで、白塗りのワゴン車が立て続けに三台飛び出してきた。車は飛行場へ向かう道を走って行った。どこか慌てているようで、それは沈没船から逃げ出すネズミを思わせた。
研究棟のドアを開くと、空気そのものがざわめいていた。激しく行き交う足音に、断続的に鳴り続ける電話の着信音。叫び声のようなものもする。廊下を進む間に何人もの書類を抱えた所員とすれ違うが、皆自分のことしか見えていないようで、こちらに少しでも視線を向ける者はいなかった。
階段を上がり、二階の廊下の奥を目指す。目的の部屋は、ノックするまでもなくドアが開け放たれていた。
中では、こちらに背を向けた所長が携帯端末に向かって話し込んでいた。何かの指示か算段を立てているようだった。やがて彼女は、目の前の窓に薄く映ったわたしの姿に気がついた。
振り向いたその顔にはまず驚きがあり、遅れて恐怖の色が浮かんできた。
「お忙しいところ申し訳ありません」わたしは言った。「今行われている作業を停めてもらいたいのですが。調査隊が到着するまで現状を保存するために」
所長は端末を耳に充てたまま、こちらを見つめている。目は見開かれ、両の瞳が揺れているのがわたしの位置からでもわかる。
電話の相手の呼びかけが煩わしくなったのか、彼女は端末を下ろした。指だけで通話を切ると、紫がかった唇が、歪むように開いた。
「無事だったのね」精一杯の皮肉であり、最大限の虚勢なのだろう。
「はい。ご期待に添えずすみません。ちなみにミヅキさんも無事です」
所長に喜ぶ様子はなかった。わたしは続ける。
「この島の設備等は全て現状維持でお願いします。以降の運用は全て軍が行います。何も持ち出さず、何も破棄しないように」
「それは国防軍の総意?」
「現場での判断はわたしに委ねられています」
「なら、あなたの匙加減ひとつでどうとでもなるわけね」
わたしが口を開くより先に、彼女は机に置かれていた銃を手に取った。銃口がこちらへ向けられる。
撃たれることに対する恐怖はなかった。銃口が時化の波間に浮かぶブイのように揺れているのもあるが、恐れを抱くにはわたしは疲れ過ぎていた。正確には〈撃たれてもいいか〉ぐらいの気持ちだった。当たるか当たらないかは数十分の一ぐらいの確立だろう、と。だから、彼女の指が引き金を絞る様子も眺めてしまった。
絞りきられることはなかったが。
おや、とわたしは思う。所長は何度も人差し指を引こうとするが、引き金はイミテーションのように動かない。まさか銃そのものがハリボテということもないだろう。所長は銃をあらゆる角度から検分するが、やはり反応はない。
『〈件〉だ』とクラウスが言う。『君の報告が正当なものとして受理されたんだ。この島の秘匿特権は停止された』
金属の塊が置かれる、鈍く重い音がした。所長は机にもたれ掛かり、右の手のひらで顔を覆っていた。
「私は何も間違っていないわ」掠れた声で彼女は言った。「全ては世の中の進歩のためなのに」
わたしには何も言うことはなかった。恐らく、彼女とわたしでは、前提とする価値観が全く違っている。そういう相手に掛けられる言葉を、わたしは持っていない。悲しいことだとは思う。
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