4−3

 少女を匿っていたディレクトリを出ると、間もなくしてセキュリティプログラムに検知された。最初にここへ来た時と同じサメ型のオブジェクトが二つ、橙色の海を背にして近づいてくるのが見えた。

 わたしは少女を後ろへ隠し、サメたちと相対する。リソースを消費して、右手にスピアガンを現出させる。非損耗率を五パーセント消費する。これに、矢一本につき一パーセントずつを更に消費していくことになる。もちろん無駄打ちはできない。

 狙いを定め、引き金を絞る。命中。サメは悶え、やがて引き攣ったようにその場で止まる。

もう一匹にも矢を放つが、こちらは身を翻して回避される。

 もう一射、更に一射。四発目でようやく当たる。わたしは少女を促し、再び泳ぎ出す。

 これで時間にゆとりができたというわけではない。矢はあくまでも足止めで、サメ型オブジェクトは遅かれ早かれ修復されるに違いない。それに、二匹だけとも限らない。他の個体がいつ何時、どこから現れてもおかしくはない。急がなければならないことに変わりはない——

 そんなことを考えていた矢先、視界の端を黒い影が過った。しまった、と振り向いた時には既に、わたしの後ろに少女はいなかった。

 少女は為す術もなく、サメに銜えられていた。わたしは追いかけるが、人型の発火体では魚類の速度には到底追いつけない。追跡を諦め、スピアガンを構える。攪乱するように左右に身を揺らしながら遠ざかっていくサメに照準を合わせようと試みる。

 引き金を絞ろうとした瞬間、視界が大きく揺れた。

 両足の自由が利かない。見ると、両方の膝から下はサメの歯に捕らえられている。これが物理世界であれば痛みと恐怖に取り乱すところだろうが、情報空間には幸い痛覚はない。だが、死の可能性は変わらず付き纏う。目減りする数値として可視化されてもいる。それに、水の抵抗や水圧も再現されている。わたしは意図しない力により、無理矢理深い場所へと連れて行かれる。その際に発火体へ掛かる負担はそのまま、わたしの意識の耐久力を消費させる。

 矢を打ち込もうとはするが、体全体を振り回され、狙いを定めるどころではない。非損耗率八十四パーセント。瞬く間に危険水域が近づいてくる。

 サメに食いつかれた両脚の感覚をパージする。次の瞬間、膝から下のオブジェクトが砕け散る。非損耗率七十五パーセント。意識が一瞬焦点を失う。だが、深海に引きずり込まれ、一切が消失するよりは遙かにいい。

 濃紺の海を背に上がってくるサメを一射で仕留める。辺りを見回し、少女を連れ去ったサメを探す。遠くにそれと思しき影が見える。泳いでいこうとするが、両脚を失ったせいで上手く進むことができない。

 それでも腕の力だけで進んでいくと、またしても別の個体が行く手に現れる。スピアガンを構えるのが遅れる。サメが口を開き、律儀に並んだ鋭い歯の列が迫ってくる。

 覚悟した損耗はなかった。

 咄嗟に構えた腕を降ろすと、サメ型オブジェクトは口を大きく開けたまま制止していた。よく見れば、わたしが矢を打ち込んだ時と同じように小刻みに震えている。強制停止の信号が送られたのだろう。

「今のうちに」どこからか声が響いた。クラゲのものだ。「これも長くは持たない」

 わたしは停止したサメを除け、少女のいる方へ向かった。彼女を銜えていたサメも同様に動きを停められていた。少女に異変はないようで、サメの歯から自分の力で抜け出して、こちらへ泳ぎ寄ってきた。

「格納庫は確保したわ。あなたの体もそこにいる」クラゲが言った。

 急ぎたいのは山々だが、腕で掻いただけでは一向に前へ進まない。いっそ少女に行き先を教え一人で行かせようかと思っているところへ、少女がわたしの懐へ飛び込んできた。

 発火体同士の接触。それはどこか懐かしい感覚だった。

「どうしたの?」

 答えはない。少女は背中を丸め、わたしの体に自分の頭を押しつけている。

 まるで見えない膜を突破しようとするように。

 そこには、固い意志の存在が感じられる。

 やがて少女とわたしの発火体との間で癒着が始まる。彼女の内側を走る回路のいくつかが、わたしの中のものと繋がっていく。別々に瞬いていた光は同期され、同じタイミングで——主にわたしのタイミングで——明滅するようになる。

 彼女がわたしの中に

 わたしたちは一つになる。

 少女の記憶なのだろう。何頭ものクジラと共に海の中を進む光景が早回しで流れる。明るい海、暗い海、暖かな海、冷たい海——。同じ回遊の様子だが、何種類もあり、それらが走馬灯のように忙しく再生されていく。

 やがて、一種類の記憶に焦点が合わさる。そこで彼女は一人で泳いでいる。真っ暗な水中に、仲間の姿はない。探して呼びかけても、応答はない。

 孤独。

 恐怖。

 彼女は何かに追われている。振り向くことはできないが、それは感じる。

 何かが迫ってくる。必至に尾鰭を動かすが、距離を詰められる。

 もっと早く泳げたら。

 彼女は思う。

 わたしは思う。

 もっと早く泳げたら。

 あの人にだって追いつけるのに。

 わたしの腕の中に、少女はもういない。彼女は完全にわたしの一部と化した。消失したのではく、わたしの一角に居場所を構える形で。

 七十代前半まで落ちていた非損耗率が八十六パーセントまで回復している。数値は更に上昇していき、わたしは両脚に熱さのようなものを覚える。膝から下をパージした両脚が光に包まれている。光は段々と、海棲生物のそれのような尾鰭を形成していく。

 完成した尾鰭は、わたしの意のままに動く。あるいは少女の中のクジラとしての記憶が、身体感覚のズレを補正しているのかもしれない。

 一掻きするだけで、目覚ましい速さで体が前へ進む。もう一掻き、また一掻き。これならまだ泳ぐことができる。

 途中、サメ型オブジェクトに何度か検知されたが、襲われる前に振り切った。今、この海にわたしに追いつける者はいないだろう。そして今のわたしなら、誰のことも逃しはしないだろう。

 わたしは格納庫のポートを目指し、量子の海を貫くように進んでいく。

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