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 所長の部屋を出ると、先ほどの黒縁眼鏡の女性が立っていた。終わる時間を見計らったのか、ずっとそこにいたのかは定かではないが、彼女は何事もなかったようにわたしを宿泊部屋へ案内するため歩き出した。

 歩きながら、彼女は館内での注意事項をいくつか並べた。部屋のある居住棟内であれば自由に出歩けること。ただし他の棟および建物の外へは許可なく出てはいけないこと。施設内のネットワークを使うのは自由だが、使用は常時監視されていること。また、不正アクセスについては身分の如何もなく排除されること。白衣の背中越しに、淡々とした口調で彼女は述べた。

「排除、というのは?」試しに訊いてみる。

「文字通りの意味です。端末越しであれば端末が、発火体であれば発火体がされます」

「なるほど」

『ナギ』不意にクラウスが話しかけてきた。『妙な音が聞こえる』

『何も聞こえないけど』

『物理音声ではない信号だ。微弱だけど、確かに聞こえる』

 視界の一角にオシログラフが表示される。心電図のような折れ線が、小さくはあるが周期的に波を描いている。何らかの音が存在するということ、引いては、音を発する誰かの意思が存在するということだ。

『パターンとしてはイ短調に近い』

『歌?』

『そういうことになるね。音声変換するとこうなる』

 頭の中に、合成音声の歌が流れる。声は一人分で、風の吹き荒れる中で歌っているようにノイズが強い。だが、不鮮明ながらもか弱い少女が一人で歌う姿が想像できる。

 風の中、一人で歌い続ける孤独な少女。

『ラジオの放送を拾っているんじゃないの?』

『それにしては信号が弱い。情報量も少なすぎる』

 わたしは前を行く案内人を見る。白衣の背中は変わらず歩き続けている。

『とりあえず、記録しておいて』

『了解』

 どこをどう来たかも把握できないほど複雑な道のりを経て、わたしは居住棟の一室へ辿り着いた。所長室のものと同じスライド式ドアを開けると、ベッドと机と窓だけの簡素な個室だった。どこか、病室のようでもあった。

 入り口の正面には窓があった。海でも見えるかと近づくと、視界は真っ白な平屋造りの建物で遮られ、端の方に水平線がわずかに見えるだけだった。

 残念に思いながらも、そうした気持ちはすぐに掻き消された。

『クラウス、歌はまだ聞こえる』

『聞こえるよ。さっきよりはっきりと』

 そうだろう、とわたしは白い建物の屋根を見ながら思う。そこに、白いワンピースをはためかせた少女が立っていた。わたしの想像から抜け出てきたような少女だ。

 わたしの視線に気づいたように、彼女はこちらを向いた。風が、彼女の藍にもエメラルドグリーンにも見える髪をなびかせる。真っ青な空に光の粒が舞ったような気がした。いや実際、舞っていた。少女は粒となり、海風に吹き散らされていった。わたしは何もない空を見上げたまま、しばらく動けなかった。

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