ポジティブガールは捕まえる
夏休みも半ばを過ぎた今日も、全国的な猛暑日だった。
私は真央ちゃんと穂乃果ちゃんと三人で映画を見た後、お茶をすることになった。穂乃果ちゃんのオススメだというカフェの店内は、冷房が効いていてひんやりと涼しかった。ひっそりとした路地裏にある隠れ家風のカフェで、内装はオシャレなログハウスみたいだ。
紅茶の種類がびっくりするくらいたくさんあったけれど、店員さんに違いを尋ねることもできなくて、唯一字面に見覚えのあるアールグレイを頼んだ。真央ちゃんはアイスコーヒーを注文して、穂乃果ちゃんに「紅茶が有名なのにぃ」と言われていた。
映画の感想を言い合った後、夏休みのあいだの近況報告を始めたところで、穂乃果ちゃんが「そういや、おとといヒロくんと別れてさあ」とあっけらかんと言った。
「えっ。穂乃果ちゃん、もう別れたの……?」
穂乃果ちゃんは「うん」とあっさり答える。夏休みのあいだにネイルをしたらしく、くるくるとアイスティーをかき混ぜる指先にはキラキラした石が乗っていた。
「やっぱり、なんか違うなーってなっちゃって」
「早すぎでしょ。桜井くん可哀想」
「なんでー? こっちに気持ちがないのに、付き合わせる方が可哀想じゃない?」
「だったら最初から付き合うなって話よ」
「だってえ、好きになれるかなーって思ったんだもん! のちのち後悔するくらいなら、とりあえず付き合ってみた方がいいと思うの!」
バッサリ切り捨てた真央ちゃんに、穂乃果ちゃんは膨れている。穂乃果ちゃんのバイタリティはすごいと思うけれど、私はひっそりと桜井くんに同情した。
「てか、わたしの話はもういいよ! ねえつむぎん、こないだ芳川くんと花火大会行ったんでしょ? どうだった?」
「えっ!? ……えーと、その……」
穂乃果ちゃんの問いに、私は口ごもった。友達に自分の好きな人の話をするのは、未だに慣れない。私はごくごくとアイスティーを飲んだ後「えっとね」と切り出した。
「……うん、す、すごく……楽しかった。花火も綺麗だったし、手、繋いで歩いちゃった……」
突然キスをされた、ということは、真央ちゃんと穂乃果ちゃんにもさすがに言えなかった。
今思い出しても、夢のような夜だった。手を繋いで歩いたことも、並んで花火を見たことも素敵な思い出だけど、まさかキスをされるなんて思いもしなかった。突然のことでびっくりしてしまったけれど、全然嫌じゃなかった。
あの日以来、瀬那くんからはパタリと連絡がこなくなった。こっちからメッセージを送ろうとも思ったけれど、勇気が出ないままだ。
瀬那くんは、どうして突然あんなことをしたんだろう。いや本当は、「もしかして」と思わないこともないのだ。でもそれを口にするのは、なんだかすごく思い上がっているような気がする……。
「いいなー! 花火大会で手繋いで歩くって、それはもはや付き合ってるよね? ね、真央ちゃん」
「……よくわかんないけど、付き合ってなくても手くらいは繋ぐんじゃない?」
真央ちゃんは眉ひとつ動かさず、コーヒーを口に運ぶ。そういえば、真央ちゃんも成海くんと一緒にいるところを花火大会で見かけたけれど、どうなってるんだろう。突っ込みたかったけれど、聞けなかった。
私は紅茶と一緒に注文したスフレチーズケーキを口に運んだ。口の中でふわっと溶けて、とっても美味しいけど儚い。あとみっつくらい食べたい。
「あのね……す、すごく自惚れてて思い上がった発言だと思うし、もし違ってたら、〝このウジ虫!〟って罵って欲しいんだけど……」
「うん」
「も、もしかして、瀬那くんって、私のことす、好きなんじゃないかなって……」
全否定されるのも覚悟で、勇気を出してそう言ったのだけれど、真央ちゃんと穂乃果ちゃんは揃って呆れた顔をした。
「いや、いまさら何言ってんの?」
「え、むしろ今までどう思ってたの!? あそこまで好意ダダ漏れな子、なかなかいないよ!」
「だ、だって……よ、陽キャの中には、好きじゃなくても手を繋いだり……キ、キスするような文化もあるのかなって……」
「まあ、そういう人もいるだろうけどぉ」
「成海の話聞く限りでは、芳川くんはそういうタイプじゃないと思うよ」
「そ、そっかあ……!」
二人に肯定してもらえて、私はちょっと自信が湧いてきた。もしかすると、私の自惚れじゃないかもしれない。よしっ、と小さなガッツポーズをする。
「……わ、私。瀬那くんに、こ、告白、する……!」
私の言葉に、二人は「えっ」と目を丸くした。真央ちゃんは私の額にぺたりと手を当てて、「熱でもあるの?」と首を捻っている。恋の病は患っているかもしれないけれど、私は健康そのものだ。人生の中で、今の私が一番元気いっぱいかもしれない。
「告白って……ずいぶん急だね。いつするの? 夏休み終わってから?」
「き、今日!」
「今日!?」
そう、今日だ。今日しかない。この勢いを失ってしまったら、私はきっと一生動けない。たとえ当たって砕けたとしたって、私はこの気持ちを伝えずにはいられない。
「帰ったら制服に着替えて学校行って、瀬那くんが部活終わるの待って、それからこ、告白してくる」
「つむぎんがそんなこと言い出すなんて……はー、恋の力ってすごい……」
「……紬、頑張ってね。応援してる」
「あ、ありがとう……! も、もし振られたら慰めてね……」
強気になりきれない私の言葉に、二人は「当たり前でしょ! 愚痴付き合うよ!」「紬のこと振ったら、芳川くんのこと殴りに行かなきゃ」と答えてくれる。私は笑って、最後に一口残ったスフレチーズケーキをぱくりと頬張った。
……そして、今。私は校門の前で、瀬那くんのことをじっと待っている。夏休みだというのに制服姿で、かれこれ二時間ほど突っ立っている私は、きっと不審者じみているだろう。
ジージーとうるさくアブラゼミが鳴いている。日陰にいるから大丈夫だと思うけど、一応水分はちゃんと摂っておかなくちゃ。さっき自販機で買ったスポーツドリンクを飲んで、小さな息を吐く。
瀬那くんはまだ来ない。練習は終わって、さっきまで成海くんと桜井くんと喋っていたみたいだから、そろそろここを通ると思うのだけれど。
鮮やかな青空に、真っ白い入道雲が浮かんでいる。まるで一枚の絵画のように美しい光景だ。そういえば、グラウンドの水撒きをするときに、虹ができるときもあると言っていた。きっと綺麗なんだろうな。いつか見せてくれるといいな。
恋をするって、素敵なことだ。瀬那くんに恋をしてから、私は夏を好きになれた。
てのひらを開いて、小さなホクロをじっと見つめる。目を閉じて、三秒。神様の――ううん、大好きな男の子の姿を思い浮かべる。
……好きです、瀬那くん。
昨夜から何度も何度も頭の中で繰り返したセリフ。私は本物の彼を目の前にしても、ちゃんと伝えられるだろうか。
そのとき、向こうから彼が歩いてくるのが見えた。やっぱり瀬那くんはオーラがキラキラしていて、遠くにいてもすぐに見つけられる。私の姿を見つけた瀬那くんは、はっとしたように目を見開いて、足を止めた。
「せ、瀬那くん」
私がそう呼びかけた瞬間、彼はくるりと踵を返して――そのまま、走り去ってしまった。
「瀬那!? 何やってんだ、あいつ!」
「八重樫さん! あのバカ追いかけて、早く!」
成海くんに言われるまでもなく、私はほとんど反射で駆け出していた。普通に考えて、帰宅部の私が野球部の彼の全力疾走に追いつけるはずもないけれど、それでも私は走らずにはいられなかった。
――絶対、絶対に捕まえる。
これまでの人生の中で、こんなに必死に何かを追いかけたことなんてない。私は無我夢中で、遠くに見える背中を目指して走った。
体育館の横を通って、購買を横切って、テニスコートの脇を抜けて、中庭に出る。彼の背中はどんどん小さくなっていって、追いつける気がしない。暑くて、汗だくで、息が苦しくて、足が痛くて、肺が千切れそう。
「瀬那くん、待って!」
精一杯呼びかけたけれど、それでも彼は止まらない。どうしよう、どうしたら止まってくれるの。私は腹筋に力を入れて、喉が枯れるくらいに大きな声で叫んだ。
「……わ、私、瀬那くんのこと、好き!」
その瞬間、ぴたり、と彼の動きが止まる。振り返り、呆然とした表情で立ちすくんでいる彼に必死で追いつくと、私は思いっきり彼に飛びついて、背中にぎゅっと腕を回した。
「……つ、捕まえたぁ……」
逞しい胸に顔を押しつけて、私はゼイゼイと荒い息を吐く。死にかけの魚のようになっている私に、瀬那くんは躊躇いがちに背中を撫でてくれた。彼と触れ合った部分が、燃えるように熱い。
「……紬ちゃん、大丈夫?」
ようやく息が落ち着くと、瀬那くんは心配そうに私の顔を覗き込んできた。私はもう絶対に逃すまいとばかりに、彼にしがみつく。
「つ、つむぎちゃ」
「なんで、なんで逃げるの……」
「……ごめん」
「あ、謝って、ほしいわけじゃ、ない……」
「ごめ……あ、いや、違っ」
少し前までは私の方が謝ってばかりだったのに、いつのまにか立場が逆転している。彼は軽く頰を掻くと、やや言いにくそうに口を開いた。
「あんなことして、もう嫌われたんじゃないかと思って……」
「あんなことって?」
「…………キス」
ほんとにごめん、と瀬那くんは重ねて繰り返す。ぶんぶんと首を横に振って、「嫌いになんか、ならないよ」と伝えた。それでも瀬那くんは眉を下げて、不安げな顔をしている。
私は大きく息を吸い込むと、まっすぐ彼の目を見つめながら、今度はちゃんと伝わるように繰り返した。
「わ、私、せ、瀬那くんのこと、好き、です」
私の決死の告白に、瀬那くんは戸惑ったように目を伏せた。息を詰めながら返事を待っていると、瀬那くんは小さな声で「オレ、怖い」と呟く。
「……怖い?」
神様にも怖いものがあるのか、と私は驚く。瀬那くんは下を向いたまま、ボソボソと続けた。
「紬ちゃんのこと好きになってから、なんかオレおかしくて。今まで平気な顔して紬ちゃんと喋ってたのが、不思議なぐらい。紬ちゃんに愛想尽かされるんじゃないかとか、紬ちゃんのこと好きな奴が現れたらどうしようとか、すげー不安で……そんな情けない自分も嫌で。どんどん自分が自分じゃなくなるみたいで……怖い」
「……瀬那くん。今、私のこと好きって言った?」
「言った、けど……紬ちゃん、オレの話聞いてた!?」
「き、聞いてるよ! でも、そんなことどうだっていい……」
私の好きな人が、私のことを好きでいてくれる。その事実だけで、私はなんだって乗り越えられるような気がする。私は彼の背中に回した腕に力をこめて、ぎゅーっときつく抱きついた。
「わ、私はヘタレでビビりで泣き虫だけど、こ、これからもずっと、瀬那くんのこと、好きでいる自信だけはあるよ」
「紬ちゃん……」
「瀬那くんが不安になったら、何回でも好きだって言うから……だ、だから、わ、私と、付き合ってください!」
私が瀬那くんに勇気をもらったみたいに、私も瀬那くんを安心させてあげられたらいい。私が後ろ向きになったときは彼に引っ張ってもらって、彼が後ろ向きになったときは、私が背中を押してあげる。そういう関係になれたらいいな、と思うのだ。
瀬那くんは唖然と目を見開いていたけれど、やがて「……降参です」とぽつりと呟いた。こつんとぶつけ合った二人の額はどちらも汗ばんでいて、同じぐらいに熱を持っている。
「……オレも好きだよ、紬ちゃん」
瀬那くんは囁くような声でそう言うと、私の背中に腕を回して、息が止まりそうなほどに強く抱きしめてくれた。くらくらと目が眩むほどの甘い感覚は、きっと夏の暑さのせいじゃない。このまま身も心も太陽に溶かされてしまったとしても、私は絶対に離したくない。
ずっとずっと焦がれ続けてきた神様を、私はようやくこの手に捕まえたのだ。
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