ポジティブボーイは歌う

 ファーストフードで昼飯を食った後、カラオケ店の受付を済ませて通されたのは、L字型のソファがひとつだけの狭い部屋だった。天井には小さなミラーボールがくるくると回っている。オレがカラオケに来るときは大抵友人五、六人と連れ立って来るので、こんなに狭い部屋に入ったのは初めてだ。

 隣の部屋はかなり盛り上がっているらしく、やたらとテンションの高いアイドルソングを歌う野太い声と、合いの手と笑い声がここまで響いてきた。

 紬ちゃんはやや緊張した面持ちで、小さなカバンをソファの上に置き、おっかなびっくり腰を下ろす。オレは紬ちゃんに向かって「なに飲む?」と尋ねた。


「……? の、飲み物もあるの?」

「エレベーター前にドリンクバーあっただろ」

「え、もしかして飲み放題なの? 太っ腹だね……」

「紬ちゃん、ほんとにカラオケ来たことないんだ……」


 初めてのカラオケに戸惑っている紬ちゃんのために、オレは飲み物を取ってきてあげることにした。一緒にいるのが男友達なら、いろんな種類をミックスして魔の飲み物を作るところだが、相手は紬ちゃんだ。自分のぶんはコーラ、紬ちゃんのぶんはオレンジジュースを入れる。部屋に戻って紬ちゃんにグラスとストローを差し出すと、彼女は礼を言って受け取ってくれた。

 テーブルの上に置かれたタブレット端末を手に取ると、紬ちゃんに向かって「先歌う?」と尋ねる。予想通り、紬ちゃんはぶんぶんと首を横に振った。まあ、そんな気はしてた。遠慮なく、先に歌わせてもらうことにしよう。曲を入れてイントロが流れ出すと、マイクを手に立ち上がる。


「あ、この曲知ってる……こないだやってたドラマの主題歌だ」

「知ってる!? これ、オレの好きなバンド! 最近出た新曲もめちゃくちゃ良くて……」

「せ、瀬那くん。曲始まるよ」


 もう少し語っていたかったが、モニターに出る歌詞に合わせてオレは歌い出す。腹から全力で声を出すのは気持ちが良いものだ。

 曲が終わると、紬ちゃんはぽかんと口を開けてオレを見ていた。コーラを一口飲んだ後、呆気に取られている彼女に向かって笑ってみせた。


「オレ、歌下手でしょ!」


 取り繕うことも忘れたのか、紬ちゃんは「……うん」と素直に頷いた。

 そう、胸を張って言えることではないが、オレは音痴だ。成海はオレとカラオケに行くことを「ジャイアンリサイタル」と呼んでいる。自分ではちゃんと歌えているつもりなので、何がダメなのかさっぱりわからない。

 音痴だろうがなんだろうが、オレは歌うことがわりと好きだし、人前でそれを披露することが恥ずかしいとも思えない。オレがあまりにも堂々と歌うので、みんなは呆れつつも笑ってくれる。中学の歌のテストでも、全力で歌い切ったオレに当時の先生は「元気が良くてよろしい」とA判定をつけてくれた。


「な? オレのこと見てたら、人前で歌うのなんて余裕だなって思えない? 紬ちゃん、もし音痴だとしてもオレよりは絶対マシでしょ」


 紬ちゃんはしばらくじっとこちらを見つめていたけれど、やがて頰を綻ばせてふわりと笑った。紬ちゃんの笑った顔を、直接見たのは初めてだ。想像通り、やっぱりすごく可愛かった。


「……わ、私も歌ってもいい?」

「いいよ! 紬ちゃんの歌聞きたい!」


 タブレット端末の操作方法がわからない紬ちゃんのために、曲の入れ方を教えてやる。彼女が入れたのは、女性アイドルグループのヒットソングだった。紬ちゃんにはあまり似合わない、前向きな恋愛ソングだ。意外なチョイスだなと思っていると、紬ちゃんはやや言い訳がましく「穂乃果ちゃんが好きで、覚えたの」と言った。

 イントロが流れると、紬ちゃんは何故か右のてのひらをじっと見つめた。それから目を閉じて、深く息を吸う。恥ずかしそうにしながらも、たどたどしく歌い始めた。

 マイクを持つ手は震えているし、表情は強張っているし、直立不動の棒立ちだけれど、音程はしっかり取れていて普通に上手かった。たぶん、オレの百倍上手い。

 無事に最後まで歌い終えた紬ちゃんに、オレはパチパチと盛大な拍手を送る。紬ちゃんは深々とお辞儀を返してくれた。しまった、紬ちゃんを見るのに夢中でコールをするのを忘れていた。次はきっちりヲタ芸まで仕上げて披露してやろう。


「紬ちゃん、普通に上手いじゃん!」

「あ、ありがとう……はぁ、緊張したあ」


 はにかみ笑顔を浮かべた紬ちゃんは、ほっと息をついてオレンジジュースのストローを咥える。オレはもっと、紬ちゃんの歌が聴きたくなっていた。


「なあなあ、これ知ってる? 次これ歌って」


 オレの好きな女性アーティストの曲をリクエストしてみると、「がんばります」と頷いてくれた。女の子とカラオケに来るのはいいものだ、とオレはしみじみ思う。

 その後もオレたちはそれぞれ好きな曲を入れて、ときおり相手に歌って欲しい曲をリクエストをして、思う存分カラオケを楽しんだ。紬ちゃんが一曲歌うのに対してオレが三曲歌うペースなので、三時間も経った頃にはオレの喉はガラガラになっていた。もう何杯目かわからないコーラで喉を潤す。


「はー疲れた。ちょっと休憩しよ」

「わ、私も……」


 いつのまにか隣の部屋はバラードタイムに突入したらしく、馬鹿騒ぎの声も聞こえなくなっている。ごくごくとアイスティーを飲む紬ちゃんに、オレはふと尋ねた。


「そういや紬ちゃん、さっき歌う前にてのひらじっと見てたよな。あれ、なんで?」

「えっ!? え、いや、あの、あれは……緊張しないための、おまじない、みたいな……」

「へー! それって、どんなの?」


 食いついたオレに、紬ちゃんはもみじみたいに小さなてのひらを広げて、オレの前に突き出してきた。


「……ま、まず、自分のてのひらにあるホクロを、じーっと見つめる」

「へー。紬ちゃん、そんなところにホクロあるんだ」

「それから三秒間だけ目を閉じて」

「うんうん」

「深呼吸して……こういう風になりたい、と思う人の姿を思い浮かべるの」

「オレにとっての大谷翔平選手みたいな?」

「……うーん、そうなのかな……。そうすればちょっとだけ、だけど……勇気が出てくるの。その人は私にとって、神様みたいな存在だから」

「神様ねえ……」


 紬ちゃんの話を聞いて、オレはなるほどと腕を組む。そういえばプロ野球選手の中にも、緊張しないために自分のルーティンを決めている人がいる。今聞いた一連の流れが、彼女なりのルーティンなのだろう。


「ところで。紬ちゃんにとっての神様って、誰?」

「えっ!? いやっ、あのっ、それはっ」


 オレの質問に、紬ちゃんは何故だかアワアワと慌てふためいて、テーブルの上にアイスティーのグラスをひっくり返してしまった。中身はほぼ残っていなかったので、それほど惨事にはなっていない。「あちゃー」と言いつつおしぼりでアイスティーと氷を拭くと、彼女は「す、すみません」としゅんと眉を下げる。


「そんなに動揺すること? オレなんか変なこと訊いた!?」

「い、いいえ……その……」

「……もしかしてそれって、紬ちゃんの好きな奴だったりして?」


 冗談めかして尋ねたところ、もともと赤らんでいた紬ちゃんの顔が、ますます真っ赤になった。蒸気でも吹き出しそうな勢いで、泡を食って「ち、ち、違います!」と言い返してくる。否定してくれて、何故だかホッとした。

 紬ちゃん好きな奴いるの、と聞こうかとも思ったけれど、やめた。他人の恋バナを聞くのは結構好きだけど、紬ちゃんの好きな男の話なんて絶対聞きたくない。

 赤いほっぺたを両手で押さえる紬ちゃんを見ていると、そういえばオレも休みの日に女子と二人で遊ぶのは初めてだな、と今更のように思った。

 昼休みの音楽室とは違う、狭くて薄暗い部屋の中に二人きりでいるのだと思うと、なんだか落ち着かない気持ちになる。今日の紬ちゃんが、普段と別人のように大人っぽいせいかもしれない。


「紬ちゃんさあ」

「う、うん?」


 ――もし今日一緒に出かけるのがオレじゃなくても、そうやってオシャレしてきた?

 そう尋ねかけて、そんなこと訊いてどうする、と口を噤む。答えがどうだったとしても、何の意味もない質問だ。代わりにオレは、「試験勉強してる?」と当たり障りのない問いを投げかけた。


「い、一応やってるよ……一週間前だし」

「やべーオレ全然やってない! 紬ちゃん、勉強教えて!」

「えっ! わっ、私なんか瀬那くんに教えられるほどのものでは……」

「紬ちゃん、真面目だしノートめちゃくちゃキレイじゃん! あれ見てるだけで頭良くなれそう!」

「そんなことないと思うけど……でも、う、うん……私でよければ」


 そう言って微笑んだ紬ちゃんは可愛かったけれど、やっぱりなんだか胸の奥がソワソワする。音楽室で二人きりのときは、全然平気だったのに。

 ふたつ結びで巨大なおにぎりを食べる制服姿の紬ちゃんが、無性に恋しくなってきた。

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