ポジティブボーイは抱きしめたい

 七月も半ばになり、蝉の声がうるさくなるのに比例して、日に日に暑さが凶悪になっていく。ここ一ヶ月ほどで、オレの好きなものがひとつ増えた。クーラーの効いた昼休みの音楽室だ。

 のんびりしているうちに、音楽の試験が一週間後に迫っていた。オレとしたことが紬ちゃんと仲良くなることばかりに必死になって、歌のテストの存在をすっかり忘れていた。オレのそもそもの目的は、紬ちゃんのあがり症を治すことではないか。


「ということで紬ちゃん、一緒にカラオケ行こう!」


 目の前で巨大なおにぎり(今日は炊き込みごはんおにぎりらしい)をかじっている紬ちゃんは、キョトンと首を傾げた。そういう仕草をすると、ますます小動物っぽさが増す。


「……え? きゅ、急にどうしたの?」

「歌のテスト、もう来週だろ。そろそろ練習しようぜ!」

「……あっ」


 オレの言葉に、紬ちゃんははっとしたように片手で口元を押さえて青ざめる。青ざめつつも、おにぎりを頬張ることも忘れない。

 もしかすると、本人も忘れていたんだろうか。あんなに憂鬱がっていたくせに、紬ちゃんの神経構造はよくわからない。もしかすると意外と呑気なのかもしれない。


「ど、ど、ど、どうしよう……えっ、もう来週? うわあ、もうダメだ……切腹するしかない……」

「なんで紬ちゃんはいっつも発想がそう武士的なの!? だから練習しよって言ってるじゃん!」

「れ、練習……カラオケで?」

「そう! 紬ちゃん、友達とカラオケ行ったりする?」


 オレが尋ねると、紬ちゃんは青い顔のままかぶりを振る。


「ぜ、絶対無理だよ……! 誰かの前で歌うなんて、いくら仲の良い友達でも無理……」

「そうなの? じゃあ歌の試験なんて絶対無理じゃん!」

「だ、だから最初から言ってるでしょお……!」


 紬ちゃんがむーっと頰を膨らませた。最初は怯えた顔か困った顔ばかりしていた紬ちゃんも、最近は少しずついろんな表情を見せてくれるようになった。怒った顔もカワイイということは、本日の新たな発見である。


「だったら、やっぱり二人でカラオケ行こうぜ! まずは人前で歌うことに慣れた方がいいって!」

「……うっ……」

「オレ、明日部活午前中で終わりだからさ! 紬ちゃん、昼から暇?」

「ひ、暇……です。というか、休日は大体いつも暇なので……」

「じゃあ明日の一時、駅前で待ち合わせな!」

「わ、わかりました……」


 半ば強引に了承を取りつけたオレは、「よしっ!」と小さくガッツポーズをする。

 赤くなったほっぺたを押さえた紬ちゃんは、ちょっと怪訝そうに目を細めて、浮かれるオレを見つめる。「もしかしてこの人カラオケに行きたかっただけなのでは」とでも思っているのかもしれない。

 それは半分正解で、半分不正解だ。オレは「紬ちゃんと二人で」カラオケに行きたいのである。




 夏の都道府県大会――いわゆる、甲子園の予選大会だ――が開幕し、我が校の野球部は無事に一回戦を通過した。オレはギリギリベンチ入りすることができたけれど、結局出番はなかった。ので、誰よりも大きな声を出して応援することに専念した。

 朝一番の試合を終えると、監督から「今日はゆっくり身体を休めるように」とのお達しがあった。試合に出ていないオレは全然疲れていないので、元気が有り余っている。

 試合会場から自転車を飛ばして帰宅すると、シャワーを浴びて、タンスから適当なTシャツと短パンを出して着替え、ものの十分ほどで身支度を整える。いそいそと玄関でスニーカーを履いていると、母さんの「瀬那ー! あんたどこ行くのー!?」という声が聞こえてきた。「友達とカラオケ! 晩飯は食うー!」と叫んで、オレは意気揚々と外に飛び出す。

 待ち合わせ場所までは、自転車で二十分ほどで到着した。駅の駐輪場に自転車を停めて、改札の前まで移動する。

 目印である時計塔の下には、花柄のワンピースを着た女性が一人、俯きがちにスマホを弄っていた。きょろきょろと周りを見回してみたが、見慣れたふたつ結びは見つからない。まだ到着していないのだろうか。

 スマホを取り出して、今着いたよ、とメッセージを送ると、花柄ワンピースの女性がびくっと身体を揺らした。ぱっと弾かれたように顔を上げて、きょろきょろと周囲を見回している。彼女の大きな黒目ををまじまじと見つめて――はっとした。


「……紬ちゃん?」

「あ、せ、瀬那くん……! ご、ごめんね、スマホ触ってて気付かなかった……」


 そう言って紬ちゃんは、頰にかかった髪をさらりと耳にかけた。髪を下ろしているだけなのに、やけに大人っぽく見える。私服姿もいつもの制服とはがらりと印象が変わって、なんだか別人のようだった。なんだか顔もいつもとちょっと違う気がする。具体的にどこかどう違うのかは、わからないけれど。


「うわー! 紬ちゃん、オシャレしてきてるじゃん! どうしよ、オレ超適当なカッコで出てきちゃった!」


 オレは大抵休日もジャージだし、手持ちの私服がそんなに潤沢なわけではないけれど。それでも、いつもの野郎どもと遊ぶわけではないのだから、もう少し気を遣えばよかった。オレが珍しく反省していると、紬ちゃんは頰を赤く染めて俯いてしまう。


「うう……こ、こんなに気合い入れてきてやっぱり変だよね……あの、き、着替えてきます!」

「なんで!? そのままでいいよ、カワイイから! すげえカワイイ! びっくりした!」


 がしりと両肩を掴んで「カワイイ」を連呼すると、紬ちゃんは「ひええ」とますます真っ赤になって顔を隠してしまう。いつものふたつ結びもとても可愛いけれど、下ろしているのも新鮮でいい。よく見ると、毛先がくるんと外にハネている。カワイイ。

 頭の先から爪先まで、じろじろと無遠慮に眺めていると、紬ちゃんのお腹がきゅるきゅると鳴った。恥ずかしそうにお腹を押さえた彼女に、オレは吹き出す。


「メシ食ってないの?」

「う、うん……なんか緊張して落ち着かなくて……」

「そんなに? ……なあ紬ちゃん、今日オレのことどんくらい待ってたの?」


 なんとなく嫌な予感がして尋ねると、紬ちゃんはやや言いにくそうに「一時間半ぐらい」と答えた。普通、友達との待ち合わせでそこまでする? そんなに他人を待たせるのが嫌なのか? この子、すごく生きづらそうだな……。

 オレの呆れた視線に気付いたのか、紬ちゃんはやや気まずそうに前髪を引っ張ると、小声で「ごめんなさい」と呟いた。


「あの、どうしたらいいのかわからなくて……わ、私、男の子とお出かけするの、初めてだから」

「そうなの?」

「うん……昨日の夜からクローゼットひっくり返して服選んで、ドキドキして眠れなくて、朝の五時に目が覚めちゃって。お姉ちゃんに頼んでお化粧とか髪とかやってもらって、なんか変じゃないかなって何回も鏡見て。家でじっと待ってるのも落ち着かなくて、ここまで来ちゃったっていうか……」


 紬ちゃんは珍しく饒舌に、早口でまくしたてる。オレがぽかんとしていると、上目遣いにこちらを窺ってきた。


「……ひ、引いた? ごめんね」


 ……引くなんてとんでもない。オレは正直、この上なく浮かれていた。カワイイ女の子にそんなことを言われて、喜ばない男はおそらくいないと思う。もし紬ちゃんがオレの恋人かなんかだったら、この場で彼女を抱え上げて、人目も憚らずぐるぐる回していただろう。

 しかし残念ながら紬ちゃんはオレの大事な友達なので、オレは彼女の華奢な肩を掴んだまま、今すぐ抱きしめたい衝動を必死で堪えていた。

 ――いやいや、さすがに友達にそんなことできねーよな。


「全然引いてない! ……行こっか、紬ちゃん。とりあえず、先にメシ食おうぜ!」


 そう言って歩き出すと、紬ちゃんは小走りにオレを追いかけてくる。週末の繁華街は思ったよりも人が多く、紬ちゃんはオレの袖を控えめにぎゅっと掴んできた。健気にシャツを握る小さな手を横目に見ながら、友達同士で手を繋ぐのは果たしてセーフだろうか、とオレは考えていた。

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