ネガティブガールは身の程を知る

 梅雨が明けた途端に、蝉の声がやたらとうるさく響くようなった。とうとう夏が来てしまったなあ、と私はげんなりする。

 それでもいつもよりは嫌な気分にならないのは――もしかすると、芳川くんのおかげなのかもしれない。グラウンドを走り回る運動部を横目に、クーラーの効いた図書室でのんびり読書をして過ごすのは、なかなかに快適だった。

 図書当番の仕事を終えた頃には、もう十八時すぎだった。まだまだ明るい太陽を見上げて、額に滲む汗をハンカチで拭う。今から家に帰るまでに、きっと汗だくになってしまうのだろう。

 今日のグラウンドはサッカー部と陸上部が使っているらしく、芳川くんの姿はそこにはなかった。最近は休み時間も、ついつい彼のことを目で追ってしまうのでまずいと思っている。気持ち悪いストーカーだと思われないように自重しなくては。

 校門に向かって歩いていくと、目の前に男子生徒の一団が歩いているのが見えた。ぎゃーぎゃーと何事かを言い合って、楽しげに笑い声をたてている。日陰者である私は、騒がしい男子のグループがちょっと苦手だ。追いついてしまわないように、歩く速度を緩める。

 ――あ、芳川くんだ。

 私はまたしても、いち早く芳川くんを見つけてしまった。やっぱり彼は、後ろ姿もよく目立つ。よくよく見ると、前を歩く男の子たちは全員野球部だった。うちの野球部の髪型は自由なので、潔い丸坊主の子から、ちょっと長めのショートみたいな子もいる。芳川くんはその中間くらいの長さだ。

 おそらく今日はグラウンドが使えないから、早めに部活が終わったのだろう。まずい、後をつけていると思われたらどうしよう。ああ、これではますますストーカーじみている……。

 私がうじうじしていると、ふいに芳川くんが足を止めて、くるりとこちらを振り向いた。バチッと視線がぶつかって、呼吸が止まりそうになる。私の姿を認めた彼は、ニコッと眩いばかりの笑顔を浮かべた。


「八重樫さーん!」


 彼は飼い主を見つけた犬のように、尻尾をぶんぶん振って一目散に走ってくる。私の口からは「ひょえ」と変な声が漏れた。野球部の男の子たちは、ニヤニヤ笑いを浮かべながら私たちの方を見ている。


「なんだよ、瀬那ー!? カノジョかー!?」

「ちっげーよ! おまえらはさっさと帰れ帰れ! オレ、八重樫さんと帰るから!」

「エロいことすんなよー!」

「しねえよ、バカ!」


 男友達と喋るときの芳川くんは、私と喋るときよりもちょっと乱暴な口調で、「男の子」という感じがする。私がドギマギしていると、芳川くんは「くっそーあいつら、八重樫さんの前で余計なこと言うなっての!」と唇を尖らせた。


「あ、あの……お友達と帰らなくて、よかったの?」

「え? ああいいよ、あんなんいつでも一緒にいるし。八重樫さんはレアキャラだから!」

「そ、そんないいものじゃないよ! 私なんて、ガチャ引いて出てきたら即リセマラするくらいの雑魚キャラだから……」

「八重樫さん、スマホゲームとかすんの!? なんか意外。なあなあ、八重樫さんちどこ?」


 私が答えると、芳川くんは「同じ方向じゃん! やった」と破顔した。この人、本当に私と一緒に帰るつもりなのか……。

 芳川くんは自転車通学らしく、「チャリ取ってくるから待ってて!」と言われたので、私はおとなしく校門の前で待つことにする。五分もしないうちに、芳川くんが自転車を押してこちらにやってきた。


「おまたせー。じゃあ帰ろっか」

「……芳川くん、自転車なのに……なんだかすみません……私、走ろうか?」

「なんでそうなんの!? いいじゃん、ゆっくり帰ろうぜー」


 芳川くんはそう言ったけれど、部活で疲れているだろうし、早く家に帰りたいだろうに。私は彼に迷惑をかけぬようにと、出来る限り大股で歩くことにする。


「夏って、部活終わってもまだ明るくていいよな! 今から何でもできそうな気がする」

「う、うん。そうだね」


 ふたつ並んだ影が、アスファルトに伸びていく。夕方になって蝉の声は少し小さくなったけれど、暑さが和らぐことはなかった。こっそりとハンカチで汗を拭いながら、もしかすると汗臭いかもしれない、と心配になる。

 昼休みを共に過ごしてきた成果か、最近の私は芳川くんと二人でいても、それほど緊張しなくなっていた。彼は大抵一人でぺらぺら喋っているので、間が持たなかったらどうしよう、という心配をする必要もない。騒がしい男の子は苦手だけど、彼の隣は不思議と居心地がよかった。「騒がしさ」を具現化したような男の子なのに、何でだろう。


「あ! 八重樫さん、アイス食わない? コンビニ寄ろう!」


 芳川くんのお誘いに、私は無言で首を縦に振った。コンビニの駐輪場に自転車を停めてから、自動ドアをくぐる。ひやりと冷たい空気に包まれて、私はほっと息をついた。芳川くんの言う通り、真夏にクーラーの効いた店内に入った瞬間の感覚は、結構良いものだ。


「八重樫さん、何にする?」

「うーん……あんまりたくさん食べると、晩ごはん食べられなくなりそう……」

「それならパピコ食おうぜ。半分こしよう!」


 アイスケースに手を突っ込んだ芳川くんは、パキンとふたつに割れるコーヒー味のアイスを選んだ。特に異議はなかったので、私は頷く。

 芳川くんはアイスと一緒にペットボトルのコーラとカップラーメンを手に取る。夜食にでもするのだろうか。私がぼんやりしているうちに、彼はスタスタとレジに行って、さっさと会計を済ませようとしていた。慌てて財布を出そうとすると、「いーよいーよ、オレの奢り」と押し留められる。私はぶんぶんと首を振って、強引に芳川くんに百円玉を握らせた。


「よ、芳川くんにアイスを奢っていただくなんて、とんでもない……!」

「うーん、でもこれじゃ多すぎるって! じゃあお釣りあげる」

「け、結構です……!」


 私たちがレジ前で揉めているのをよそに、店員さんはお釣りをトレイの上に置いて、てっぺんに穴の空いた四角い箱をすっとこちらに差し出してきた。


「五百円以上のお買い物なので、一回くじが引けまーす」

「あ、くじだって。八重樫さん、やる?」

「う、ううん……やめとく」


 自慢じゃないけれど、私は壊滅的に運がない。この手の抽選で当たったためしはないし、席替えでくじを引くときは、大抵ど真ん中の一番前になってしまう。

 芳川くんは店員のお姉さんに向かって「これ、何が当たるんですか?」と無邪気に尋ねていた。私は店員さんと必要以上のコミニュケーションを取るタイプではないので、こんな風に気軽に話しかけられる彼のことをすごいと思う。


「お菓子とか飲み物の引換券ですね。ハーゲンダッツが当たりの部類かな」

「よっしゃ、ダッツ当ててやろ」


 ぶんぶんと腕を振り回した芳川くんは、私に向かって「見てて!」と言った。私はこくこく頷いて、当たりますように、とささやかに祈りを捧げる。

 ほとんど迷わずに三角の紙を一枚引いた彼は、店員さんに向かってそれを差し出した。ぺりぺりと紙を剥がした店員さんは「お!」と大きく目を見開く。


「おめでとうございまーす! ハーゲンダッツの引換券です」

「やったー!」


 大きくバンザイをした芳川くんは、「いえーい」とハイタッチを求めてくる。私は躊躇いながらも、ぎこちなくそれに応じた。彼はやっぱりすごい。私とは違う、幸運の星の下に生まれてきた人間なのだ。

 芳川くんはニコニコ笑って、店員さんともハイタッチを交わしていた。すごいコミュ力だ。


「今すぐ引換えされますか?」

「いや、いいです! パピコあるし」


 芳川くんはそう言って、引換券をズボンのポケットに突っ込んだ。コンビニ袋を受け取って店の外に出た彼を、私は小走りに追いかける。自動ドアをくぐった途端、一気にむっとした熱気が襲ってくる。


「あっちー! 八重樫さん、パピコ食べようぜ」


 袋からアイスを取り出した芳川くんは、それをパキンとふたつに割った。差し出された半分を、私は「ありがとうございます」と受け取る。

 考えてみれば、学校帰りにこうしてコンビニに寄り道をするなんて、初めてのことだ。アイスを咥えて吸い込むと、甘ったるいカフェオレの味がした。ひんやりと冷たくて美味しい。

 芳川くんがアイスを咥えている私をじっと見つめているので、私はソワソワしながら「……どうしたの?」と尋ねる。彼は、何かを懐かしむように目を細めた。


「八重樫さん、見れば見るほどどん兵衛に似てるなと思って……」

「……どんべえ?」

「オレが昔飼ってたハムスター! もう死んじゃったんだけど、すげーオレに懐いてて可愛かったんだよ!」


 そう言って差し出されたスマホ画面を覗き込むと、頬袋にエサをいっぱいに詰めたジャンガリアンハムスターの写真が表示されていた。

 ……なるほど、彼の私に対する「カワイイ」は、ハムスターに対するそれと同じらしい。納得すると同時に、ちょっとだけがっかりしてしまった。ああ、分不相応な期待をするんじゃなかった……。

 私が半分ほどアイスを吸い込んだところで、芳川くんはすっかり食べ終えてしまった。コーラをごくごくと飲んでいる彼に、私は目を白黒させる。


「た、食べるの遅くてごめんなさい……」

「いーよ! そのぶん八重樫さんと一緒にいる時間が長くなるってことだし!」

「ぶっ」


 一切の照れなくそう言い切った彼に、私は思わず咽せてしまった。どうしてこの人は、こういうことを他意なく言ってしまうんだろう。私は芳川くんにとってハムスター、ハムスター……と勘違いしそうになる自分を戒める。

 赤くなった顔を隠すように、俯きがちにアイスを齧る。ペットボトルのキャップを開けてコーラを飲み始めた芳川くんは、ふと何かを見つけたように「あ」と呟いた。ぶんぶんと大きく手を振った彼の、視線の先を追いかける。


「マッキー! おーい!」


 私たちの目の前を通りかかったのは、音楽の牧原先生だった。こちらに気付いた彼女は、「あら」と目を瞬かせる。

 牧原先生は髪が長くて、すらりと背が高くて堂々としていて、切れ長の目がクールな美人だ。どこをとっても私にはない要素ばかりで、本当に憧れる。


「芳川くんと八重樫さん。買い食いはダメよ」

「大目に見てよ。マッキー、このへんに住んでんの?」

「個人情報は教えられません。あと、牧原先生と呼びなさい」


 牧原先生にぴしゃりと叱られて、芳川くんは「はーい」と眉を下げた。なんだかちょっと、いやかなり、デレデレしているみたいに見える。そういえば彼は、牧原先生が美人だから音楽の授業を選んだと言っていた。なんとなくモヤモヤするのを感じながら、私は溶けかけたアイスをずるずると啜る。


「二人とも、あまり遅くならないうちに帰るように。八重樫さん、気をつけてね」

「はい……さようなら」

「マッキー、ばいばーい」


 牧原先生は芳川くんを軽く睨みつけると、ヒールを鳴らして去っていった。ぴんと伸びた背中を見つめながら、やっぱりきれいだなあと思う。


「こんなとこでマッキーに会えるなんてラッキー!」


 にこにことそう言った芳川くんに向かって、私はおそるおそる尋ねる。


「……芳川くん。牧原先生のこと、好きなの……?」

「え、うん! だって美人だし!」


 あっけらかんと答えた芳川くんに、私は小声で「そうなんだ」と答えた。そうか、やっぱり芳川くんもああいう女の人が好きなんだ。きれいで大人でしっかりしてる、私とは正反対の人。なんだか、心臓のあたりがちくちくする。

 ――身の程を知れ、八重樫紬。馬鹿げた勘違いをしそうになるなんて、私らしくない。

 やっとのことでアイスを食べ終えた私に、芳川くんは「あ、そうだ!」と言って、ポケットから引換券を取り出した。


「これ、八重樫さんにあげる!」

「えっ! そ、そんな……悪いよ」

「いーからいーから。オレさっき百円もらったから、これでチャラにしといて」

「で、でも」


 戸惑う私の手に、芳川くんは引換券をぎゅっと押しつけてくる。彼の手は大きくてごつごつしていて、小さなマメがたくさんできている。私の手よりもうんと温度が高くて、なんだかどきどきした。


「そんで、今度また一緒にアイス食べよう! 八重樫さんがダッツ食ってる横で、オレはガリガリ君食うからさ」


 きらきらと眩しい笑顔が、惜しみなく私に向けられている。私は直視しないように目を伏せながら、勘違いするな、ともう一度自分に言い聞かせる。


「……そんなの、申し訳なさすぎてハーゲンダッツの味わかんなくなるよ」


 私がそう答えると、芳川くんは「一口ちょーだいね!」と顔をくしゃっとさせて笑った。

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