ポジティブボーイは通話する
「八重樫さん連絡先教えて! 今日の夜、通話しよう!」
ずいとスマホを突き出したオレに、八重樫さんはおにぎりを頬張りながら「ええ……」と視線を彷徨わせた。相変わらず、小さな身体にはそぐわない巨大なおにぎりだ。食べ切れるのだろうかと心配になってしまうが、いつもなんだかんだで完食している。よく見ると、八重樫さんは全体的なパーツは小さめだけど、ぱかっと開いた口は結構大きい。
八重樫さんに「緊張しない方法を教えてほしい」と言われてから、はや二週間。金曜日の昼休みには、彼女と二人音楽室で昼飯を食うことにしている。
今日はまだ梅雨も明け切らない、六月の金曜日。朝から降り続いている雨は、しとしとと音楽室の窓を濡らしていた。たぶん今日の部活は室内トレーニングになるんだろう。
最初はびくびくおどおどしていた八重樫さんも、多少はオレに慣れてきてくれたのではないかと思う。話しかけると相変わらず怯えたような顔をされるけれど、隠れたり無視されたり逃げられたりするわけじゃないし、ちゃんと返事もしてくれる。ハムスターのどん兵衛だって、オレの手ずから餌を食べるようになるまで一年近くかかったのだから、そんなに焦ることもないのだ。
とはいえ、歌のテストはもう一ヶ月後に迫っている。せっかく頼りにされているのだから、やはりそれなりに成果を出したい。あと本音を言うなら、八重樫さんともうちょっと仲良くなりたい。
「考えたんだけどさ、オレの顔が見えない方が緊張せずに喋れるんじゃないかなって思って。あと、あれ……えーと、八重樫さんが言ってたパーソナルナントカも気にせずに喋れるだろ!」
「……パーソナルスペース?」
「そう、それ! それに、電話だったら何回も訊き返さなくても済むしさあ」
八重樫さんは声が小さいので、普通に会話していても「なんて?」と訊き返すことがしょっちゅうだ。そのたびに八重樫さんも恐縮するので、なんだかこっちも申し訳なくなる。通話ならば受話音量を調整できるから、いちいち訊き返すことも少なくなるだろう。
しかし八重樫さんは、スマホを片手に冴えない表情を浮かべている。「やだ?」と首を傾げてみせると、彼女はぶんぶんと首を振って二つ結びの髪を揺らした。
「い、いえ! その、芳川くんと連絡先を交換するのが嫌というわけでは……」
「じゃあいいじゃん!」
「……その。電話が、苦手なんです……」
「なんで?」
「……緊張しません? かけるのも、出るのも」
おずおずと窺うような八重樫さんの言葉に、オレは首を捻った。オレもしょっちゅう友達と通話をするけれど、「今暇?」くらいの軽いノリでかけている。友達と喋るだけなのに、何を緊張することがあるんだろうか。
「八重樫さん、友達と通話しないの?」
「あんまり……たまに用事があって電話するときも、話すこと全部メモしてからかけたりとか……」
「何それ!? 仕事じゃん!」
「す、すみません……」
「あっ、また謝った! 別に謝らなくてもいいってば!」
悪くもないのにすぐ謝るのは、八重樫さんのダメなところである。このあいだ「これから謝るの禁止ね」と言ったところ、数秒後に「わかりました、すみません……」と謝られてしまった。たぶん、彼女にとっての合いの手みたいなものなんだろう。
「……急に電話かかってきたら、仲良い子でもビクッてします」
「じゃあ、急じゃなかったらいい? 今日の夜九時にこっちからかけるからさ、そしたら出てよ」
「……たぶん、六時ぐらいから緊張してごはん喉通らないと思います……」
「えー、そこまで?」
そんなに電話が苦手なのか。それなら、尚更慣れた方がいいような気がする。少し考えた後、オレは彼女に選んでもらうことにした。
「電話、かけるのと出るのだったらどっちが緊張しない?」
八重樫さんはぱくりとおにぎりにかぶりついた後、もぐもぐと咀嚼しながら苦悶の表情を浮かべる。ごくりとおにぎりを飲み込んだ後、「か、かける方で……」と答えてくれた。
「オッケー! じゃあ待ってる!」
「わ、わかりました……が、がんばります……」
まるで死刑宣告でもされたかのように、心底辛そうに眉間に皺を寄せる彼女を見つめながら、オレは「もしかするとこの人、電話のために台本でも作ってくるんじゃないかなあ」と考えていた。
雨が降ろうが槍が降ろうが、休みにはならないのが野球部の活動というものである。夏の都道府県大会の開幕が間近に迫っているのだから、尚更だ。まあオレたち一年坊主は、ベンチ入りできるかどうかギリギリ、というところなのだが。
体育館での筋トレの後、延々階段ダッシュをさせられたせいで、太腿はもうパンパンになっていた。部活を終えるとカッパを着て自転車を飛ばして帰宅し、風呂に入って晩飯を食べ終えると、約束の時間のおよそ一時間前だった。
自室に移動すると、電話がかかってくるまでゲームをして時間を潰すことにした。RPGのレベル上げをしていると、床に置いていたスマホがブーッブーッと震える。
枕元に置いたデジタル時計を確認すると、ちょうど二十一時になったところだった。秒数までほぼぴったりだ。もしかすると数分前から待機していたのかもしれない。
「やっほー、八重樫さん!」
応答ボタンをタップしてそう呼びかけると、スマホの向こうで息を呑む気配がした。小さな声で「こんばんは」と聞こえた気がしたので、受話音量を最大にする。
「九時ぴったりだね! もしかしてスタンバってた?」
『はい……一時間前から』
「そうだったの!? だったらもっと早くかけてくれたらよかったのに」
『す、すみません……』
「また悪くもないのに謝ってる」
『う、すみま……あっ、いや、今のは違っ』
電話の向こうで八重樫さんが慌てふためく姿が目に浮かんで、オレは声をたてて笑う。顔が見えなくても表情が想像できるぐらいには、オレも彼女と親しくなった。
「八重樫さん、今何してんの?」
『ベッドの上で正座してます』
「いやいや、自分の部屋だろ? もっとくつろぎなよ! オレなんて今ゲームしてるよ!」
『じゃ、じゃあ失礼して……足を崩します』
見えないんだからいちいち宣言しなくても、勝手にダラダラすればいいのに。どこまでも律儀な彼女に、オレは呆れるよりもむしろ感心してしまう。
『このたびは私のために、芳川くんの貴重なお時間を割いてくださってありがとうございます』
「取引先?」
『これをきっかけに、少しでも話し上手になれるように精進します』
オレの茶々を無視しつつ、つらつらと棒読みで続ける八重樫さんに「八重樫さん、台本かなんか読んでる?」と指摘すると、彼女は黙りこくってしまった。たぶん、図星だ。
「そんなんいいからさ、もっとくだらない話しようぜ」
『く、くだらない話ですか? ……すみません、用意してきませんでした」
「くだらない話って、わざわざ用意してくるもんなの?」
音量は最大だが、八重樫さんの声はやはり小さい。会話に集中した方がよさそうだと思ったので、ゲームはセーブしてスリープ状態にした。部屋の中がしんと静まりかえって、激しい雨が窓を叩く音が聞こえるようになる。ピカッという稲光の後、数秒のちに雷鳴が轟いた。オレは立ち上がると、部屋のカーテンを開けて外を見る。
「うわ、すげえ雨降ってる。明日も雨かな?」
『……お天気アプリによると、降水確率は八十パーセントらしいです』
「雨降ると、外で練習できないから嫌なんだよな……早く梅雨終わんないかな」
『気象庁のホームページによると、梅雨明けは来週になる見込みだそうです』
「なんかSiriと喋ってる気分になってきた……ヘイ八重樫さん、すべらない話して」
『……すみません、よくわかりません』
「Siriじゃん! 八重樫さん、わざとやってるでしょ」
もしかすると八重樫さんは結構お茶目なのかもしれない。顔が見えないせいか、いつもよりちゃんと会話が成立している気がする。よしよし、いい傾向だ。
『梅雨明け、憂鬱だな……私、あんまり夏好きじゃないんです』
ざあざあという雨の音に掻き消されそうなくらい小さな八重樫さんの声が、耳元で響く。彼女が自分から話を振ってくれるのは、おそらく初めてのことだった。オレは「なんで?」と続きを促す。
「そもそも暑いのが苦手で……あと汗かきだから、学校来るだけで汗だくになるのが嫌で……あ、汗臭かったらすみません……」
「オレ、毎朝八重樫さんの百倍汗かいてるけど」
「あ、朝練してる人の汗はいいんです! 私、何もしてないのに一人で汗かいて……恥ずかしい……」
八重樫さんの言い分は、オレにはよくわからなかった。オレはいつも八重樫さんの後ろの席に座っているけれど、汗臭いと感じたことはないし、むしろなんかいい匂いがする。お花みたいなフルーツみたいな、女の子の匂い。
「オレは夏、好きだなあ!」
『……なんでですか?』
「高校野球好きだし、なんか空がスカッと晴れてるのも気持ちいいし、練習で汗だくになった後に飲むポカリ死ぬほど美味いし、そっから風呂入ってアイス食うのも最高だし」
『うーん……』
「あと、めっちゃくちゃ暑いところから、クーラーの効いてる部屋に入ったときの天国ーって感じとか、逆に外に出た瞬間のうわ地獄ーって感じも、なんか好き!」
八重樫さんはしばしの沈黙の後、『それはなんとなく、わかる気がする』と同意してくれた。ようやく敬語じゃなくなったことに、オレは内心「おっ」と思ったけれど、指摘するとまた謝られそうだから言わなかった。
「それから、グラウンドに水撒きするのが夏の部活の醍醐味なんだよな! なんか無性にワクワクする! キレイに撒けたら嬉しいし、たまに虹ができたりとかして」
『ふふ、いいなあ』
電話の向こうで八重樫さんが笑ってくれたので、オレは嬉しくなった。けれど、その笑顔をこの目で見れなかったことは悔しい。きっと笑った顔もカワイイんだろうな、と想像してみる。今度は絶対、目の前にいるときに笑わせてやろう。
「あ! 梅雨終わったら、水撒きしてるとこ見に来なよ。八重樫さんのために特大の虹作ってやる」
オレの言葉に、八重樫さんは『……ありがとうございます』と言ってくれた。笑みを含んだ声が嬉しくて、顔が見たくなったオレは「ビデオ通話しよう」とねだってみたけれど、それは全力で拒否されてしまった。
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