ネガティブガールは戸惑う

 六月も半ばに入り、梅雨入り宣言がされた瞬間にぴたりと雨が降らなくなった。念の為にと持ってきた傘の出番はなく、余計な荷物がひとつ増えただけだった。置いて帰ろうかな、とも思ったけれど明日は朝から雨予報だ。私はいつも間が悪い。

 雨が降るのも面倒だけれど、梅雨が終わって夏が来るのはもっと憂鬱だ。私は人よりも汗かきで、夏場は登校してくるだけで汗だくになってしまうし、体育の後なんかは自分が汗臭いんじゃないかと不安で仕方がない。まだ梅雨が明けませんように、と私はひっそり願った。

 下駄箱からスニーカーを取り出しながら、私は穂乃果ちゃんに話しかけた。


「図書当番、付き合わせちゃってごめんね」

「いーよいーよ、わたしも暇だったから」


 図書委員である私は、毎週水曜の放課後に図書当番が回ってくる。本の返却・貸出の受付が主な仕事だけれど、図書室を利用する生徒は驚くほど少ない。いつもはのんびり本を読んだりスマホを弄ったりしているのだけれど、今日は穂乃果ちゃんが付き合ってくれたので、二人で小声でお喋りをしながら過ごした。

 ミーハーで恋多き女である穂乃果ちゃんは、今はサッカー部の橋本はしもとくんに夢中らしく、私は二時間ほどみっちりと、顔も知らない橋本くんの情報を聞かされた。今の私は、きっとこの学校で七番目くらいには橋本くんのことに詳しいだろう。


「なんか、わたしの話ばっかりしちゃったね。話聞いてくれてありがと」

「ううん。がんばってね、応援してる」


 穂乃果ちゃんは私と違って、オシャレで可愛くて積極的だから、きっと橋本くんともうまくいくだろう。ゆるく巻いたロングヘアを揺らしながら、穂乃果ちゃんはくるりと振り向く。


「あ、そうだ。つむぎんは、芳川くんとはどうなってるの?」

「え、ええええ!? どっ、ど、どうもこうもないよ!」


 突然の問いかけに、千切れそうなほどの勢いで首を横に振った。

 芳川くんとはあれから二回ほどお昼ごはんを一緒に食べたけれど、私はずっと緊張しっぱなしで、おにぎりを食べることに一生懸命だった。三回目にはようやく慣れてきて、おにぎりの味も多少は感じられるようになってきた。

 芳川くんは親しげに私に構ってくれるけれど、それ以上でもそれ以下でもない。私たちはしょせん、神様とその信者という関係なのだ。


「そうなの? なーんかいい感じだと思ったんだけどなあ。最近、よく喋ってるみたいだし」

「よ、芳川くんが話しかけてくれるだけだよ……私、ほとんど喋れてないし……」


 最近は昼休み以外にも、芳川くんに声をかけられるようになったけれど、彼と私の会話のバランスはおおよそ九対一くらいの割合で、傍から見たら芳川くんが一人で喋り続けているように見えるだろう。そんなつまらない私に対しても、芳川くんは至極楽しそうに笑ってくれる。


「私にとって芳川くんは神様だから、お近づきになろうだなんてとてもとても畏れ多いよ……」

「ふぅん。よくわかんないなー」

「と、遠くから見つめてるだけでいいの」


 モタモタと上履きからスニーカーに履き替えてから、小走りで穂乃果ちゃんの隣に並ぶ。空はどんよりと曇っていたけれど、雨は降っていなかった。やっぱり傘が邪魔だ。


「あ、今日はサッカー部グラウンド練習じゃないんだあ」


 校門へ向かう道すがら、グラウンドの横を通りかかる。エイだかソウだかよくわからない、大きなかけ声を出しながら練習しているのは野球部だった。穂乃果ちゃんは目当ての橋本くんを見ることができず、残念そうにしている。ボール拾いをする一年生の中に芳川くんを見つけて、私はぴたりと足を止めた。


「あ、芳川くん」

「え、どこ?」

「あそこでボール拾いしてる……ほら、今帽子脱いだ」

「あー、あれかあ。つむぎん、よくわかったね」

「……芳川くん、遠くからでも目立たない?」


 特別背が高いわけでもないし、みんなと同じように帽子をかぶった白の練習着姿なのに、どうして彼はあんなに目立つんだろう。なんだかキラキラと眩しいオーラが出ているみたいだ。私とは住む世界の違う、陽の者。


「うーん、わたしにはあんまりわかんないな……あ、野球部といえば、五組の桜井さくらいくんも結構かっこいいよね」


 穂乃果ちゃんは本当にミーハーだ。私は桜井くんの顔もよく知らなかったので、苦笑して肩を竦めた。

 コーチらしき人の「休憩ー!」という号令とともに、芳川くんがふとこちらを向いた。ぱっと明るく表情を輝かせて、ぶんぶんと大きく手を振っている。友達でも見つけたのかな、と思っていると、彼はグラウンドの向こうまで響くくらいの大声で叫んだ。


「八重樫さーん!! 今帰りー!?」


 やえがしさんって誰だろう……と一瞬思って、私ははたと気がつく。もしかしなくても、芳川くんは私に向かって手を振っているのだろうか。

 野球部員たちが、なんだなんだとばかりに私に視線を向けるのがわかって、私は顔から火が出そうになる。


「こら芳川ー! なにチャラチャラ女子に手ェ振ってんだ!」

「すみませーん! 八重樫さん、バイバーイ!」


 先輩に一喝されても、芳川くんは気にも留めず、ニコニコ笑ってこちらに手を振り続けている。ああ、私なんかのせいで怒られてしまって申し訳ありません。私はぺこりと頭を下げると、穂乃果ちゃんの腕を引いて足早にその場を立ち去った。


「ねえねえ、つむぎん! 芳川くん、やっぱつむぎんのこと好きなんじゃない?」


 穂乃果ちゃんは、やや興奮気味に私の肩をバシバシ叩いてくる。私は食い気味に「そっ、それはないよ!」と否定する。


「よ、芳川くんは、他人との距離感がバグってる人だから……! 一度会ったら友達で、毎日会ったら兄弟だっていう考え方の持ち主なんだよ、たぶん……」

「そうかなあ。でも、わたしのことは全然目に入ってなかったみたいだけど」

「ない、ないない! ほ、ほら、早く帰ろう……」


 私はどんどん上昇する顔の熱を冷ますように、パタパタと片手を顔の横で振った。ああ、本当に芳川くんは心臓に悪い。

 最後にもう一度だけ振り向いたけれど、芳川くんはもう他の男の子と喋っていて、こちらを見てはいなかったので、ホッとした。やっぱり、このぐらいの距離から眺めているのがちょうどいい。




「八重樫さん! おはよー!」


 朝から超至近距離で眩い太陽を浴びてしまって、目がチカチカするのを感じた。

 私は視線を泳がせながらも「おっ、おはよう……」と挨拶を返す。キラキラ輝く太陽は、そのまま私の後ろの席にリュックを置いて腰を下ろした。隣の席にいる男子と、「腹減ったー。早弁しようかな」「いや、早すぎだろ」みたいな会話をしている。

 芳川くんはいつも、朝のショートホームルームが始まるギリギリに教室に入ってくる。野球部は朝練があるのだ。私が呑気に寝ているあいだに、走って投げて打って汗を流しているなんて本当に尊敬する。


「あ。そういや八重樫さん、昨日帰り遅かったよな? 何してたの?」


 再び私に話しかけてきた芳川くんに、私は内心ビクビクしながらも答える。


「と、図書委員の当番があって……」

「へー、八重樫さん図書委員だったんだ! あれ、一緒にいたの田村さんだったよな?」

「う、うん……」


 まっすぐ顔が見られなくて、私は中途半端に横を向いたまま頷いた。どうしよう。話しかけられてるのにこのまま前を向くのも感じが悪いだろうし、だからといって完全に彼の方を向いてしまうのも「こいつ、そんなにオレと喋りたいのかよ……キモッ」と思われてしまうかもしれない……。

 そんな私の葛藤などつゆ知らず、芳川くんは机に頬杖をついたまま続ける。


「そーいや桜井が、田村さんのことカワイイって言ってた! あ、桜井わかる? 五組の桜井大翔ひろと

「え? あ、うん……名前だけ」


 そういえば、昨日穂乃果ちゃんも桜井くんのことを「かっこいい」って言ってた気がする。さすが穂乃果ちゃん、私と違ってモテる女だ。穂乃果ちゃん、このこと知ったら喜ぶかな……でも橋本くんがいるもんな……と思いを巡らせる。


「ほんで、オレは八重樫さんもカワイイだろーって言っといた!」

「へっ」


 私が呆けていると、芳川くんはじーっとこちらを見つめたまま、ニカッと無邪気な笑顔を浮かべる。私が唖然と「……カワイイ? 誰が?」と訊き返すと、芳川くんはぴんとこちらに人差し指を向けて繰り返す。


「八重樫さんが! カワイイ!」


 芳川くんの言葉の意味を理解した私は、「ホギャッ」と奇声を発して慌てふためいてしまった。

 自分の容姿が特別整ってはいないことくらい、私はちゃんと理解している。面と向かって、男の子から「カワイイ」と言われたのは生まれて初めてだ。平然とそんなことを言ってしまえるなんて、もしかすると彼はとんでもない女たらしなのかもしれない! 怖い、陽キャ怖い!


「あっ、もしかして照れてる?」

「ぎょえっ、や、やめてください……」


 尚もからかってくる彼に、私は両手で顔を覆う。これ以上陽キャの戯れに付き合っていたら、勘違いしてしまいそうになる! いかんいかん、私ごときが神様とお近づきになろうだなんて、そんな大それたことは……。

 芳川くんが私の両手首を掴んで、ぐいっと顔を寄せてきた。じーっとこちらを見つめる大きな瞳には、情けなく眉を下げた私の顔が映っている。至近距離の彼は、相変わらず破壊力抜群の笑みを浮かべた。


「八重樫さん、黒目おっきいよな! カワイイ!」


 ああ、もはや手遅れなのかもしれない。太陽に近づきすぎた私の翼は、もうとっくに溶かされている。

 顔が真っ赤になっていることには気付いていたけれど、手首を拘束されているせいで隠すこともできない。私は弱々しい声で「か、勘弁してください……!」と呻いた。

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