ポジティブボーイは張り切る
購買で買ったパンを両手に抱えたオレは、足早に音楽室へと向かっていた。廊下を走るなとは小学生でもわかるルールではあるが、貴重な昼休みを無駄にすることなどできないのである。
八重樫さんは先に音楽室で待っているはずだ。事前にマッキーに「歌のテストの特訓をしたい」と伝えて音楽室の鍵を借りて、八重樫さんに渡しておいたのだ。「八重樫さんなら大丈夫だろうけど、変なことに使わないようにね」と念を押してきたマッキーに、「変なことって具体的には?」と尋ねると、「自分で考えなさい」とぴしゃりと言われてしまった。
やっぱりマッキーは最高だ。オレはああいう、ちょっと気の強そうなキレイなお姉さんに叱られたい願望がある。
「ごめん、お待たせー!」
音楽室の扉を勢いよく開けて飛び込んだけれど、八重樫さんの姿は見えなかった。キョロキョロと中を見回していると、ピアノの向こうからひょっこりと二つ結びの頭が覗く。八重樫さんだ。
「八重樫さん! え、何やってんの?」
オレが声をかけると、二つ結びは「ヒッ」と声を漏らして、またピアノの影に引っ込んでしまう。かくれんぼでもしてるんだろうか。小走りで駆け寄ると、膝を抱えてしゃがみこんでいる彼女に向かって笑いかけた。
「みーつけた!」
「こ、こんにちは……」
黒目をオドオドと泳がせつつも、八重樫さんはやっとこちらを見てくれた。そういえば昔買っていたハムスターの「どん兵衛」は臆病で、懐いてくれるまではこんな風にビクビクしていたものだ。そんなどん兵衛も、三年前に天国へと旅立ってしまった。かわいい奴だったな……と懐かしい友に想いを馳せているうちに、彼女はようやくピアノの後ろから出てきてくれた。
「八重樫さん、なんで隠れてたの? ドッキリ?」
「ご、ごめんなさい……どういう状態で待つのが正解かと思いまして……」
「よくわかんないけど、今のは不正解じゃない? あ、メシ食おうぜ。オレ早弁したから、パン買ってきた!」
そう言いながら八重樫さんの腕を引いて、窓際一番前の席に座らせる。オレはその隣に腰を下ろして、机の上に買ってきたばかりのパンを広げた。八重樫さんは昼飯を食べようともせず、深々とオレに向かって頭を下げる。
「よ、芳川くん。こ、このたびは私なんぞのために貴重な昼休みのお時間を使っていただき、誠にありがとうございます……」
「なにそれ? 八重樫さん、なんかたまに変な言い回しするよね」
「す、すみません……」
ケタケタと声をたてて笑うと、八重樫さんはますます小さく縮こまってしまう。いつも後ろから見ていて思うのだけれど、八重樫さんは猫背で俯きがちなせいで実際の身長よりも小さく見える。
「別に気にしなくていーよ。オレがもっと八重樫さんと仲良くなりたかったんだってば」
五つ歳上のうちの兄ちゃんも、「女子と仲良くなりたかったら二人で飲みに行くのが一番手っ取り早い」と言っていた。オレはまだ未成年だから、当然酒を飲むわけにはいかない。それならせめて、一緒に昼メシでも食えばいいんじゃないだろうか。
オレが明太子フランスにかぶりつくと、八重樫さんもようやく手にしていた包みから昼ごはんを取り出した。アルミホイルに包まれた、硬式ボールぐらいはありそうな巨大なおにぎりがみっつ。
「八重樫さん、お昼おにぎり?」
女子というものは、鳥の餌箱かってくらいに小さい弁当を食っているイメージが強かった。大きなおにぎりを頬張る姿は、おとなしそうな八重樫さんの印象にはあまりそぐわない。八重樫さんは悪くもないのに「すみません」と前置きしてから、答えてくれた。
「あの……高校生になったから、弁当くらい自分で作れって言われて……あんまり凝ったものは作れないけど、おにぎりぐらいなら……」
ボソボソと答える声は、やっぱり消え入りそうに小さい。彼女の話を聞くため、自然とオレはそちらに身を寄せることになる。
「それ、八重樫さんが作ってんだ! すげえ! オレおにぎり好きだよ! でも一番好きなのはオムライス!」
「知ってます……じ、自己紹介のときに言ってましたよね……わ、私はこんぶのおにぎりが好き……」
「へー! こんぶ美味いよな!」
オレはこっそり、八重樫さんがオレの自己紹介を覚えていてくれたことに浮かれた。やっぱりこの子、なんだかんだ言いつつオレのことが好きなのでは? という疑惑が再浮上する。だって、ほっぺた真っ赤だし、全然目も合わないし、なんかやけにモジモジしてるし……。
「あ、あの、芳川くん……」
「なに!?」
「ち、近く……ないですか?」
「へ?」
たしかに言われてみれば、八重樫さんの声を聞こうとじりじり寄っていくうちに、いつのまにか至近距離まで迫っていた。りんごのように真っ赤な顔が目の前にあって、彼女はオレをガードするように大きなおにぎりを構えている。
「いや、八重樫さんの声ちっさいから……喋ろうと思ったら自然にこうなってた」
「よ、芳川くんには、パーソナルスペースとかないんですか?」
「パーソ……何それ?」
「えーっと、た、他人を入れたら不快になる距離……のことです」
「あ、もしかして不快だった!? ごめん!」
「い、いやいやそういうことではなく!」
八重樫さんはぶんぶんと首を横に振ったが、オレはさすがに彼女と距離を取った。椅子ごと移動して、一メートルほど離れる。と、彼女はほっとしたように頬を緩めた。
やっぱり、彼女は別にオレが好きなわけではなさそうだ。もともと赤面症の恥ずかしがり屋なのだろう。オレは野球で忙しいし、別にこの子と付き合いたいとかそういう訳ではないけれど、ちょっとがっかりだ。
「ここならいい? このへんが八重樫さんの声が聞こえるギリ」
「……お気を遣わせて申し訳ございません……」
「別にいいんだけど、もーちょい腹から声出しなよ。みんなの前で歌わなきゃいけないんだからさ」
「うっ」
オレの言葉に歌の試験のことを思い出したのか、八重樫さんはみるみるうちに青ざめた。彼女の顔色を見ていると、オレはリトマス試験紙を思い出す。
そういえば、そもそも本題は彼女のあがり症を治すことだった。本来の目的を思い出したオレは、ちぎりチーズパンを引き千切りながら尋ねる。
「そもそも八重樫さん、なんでそんなに緊張すんの?」
「……え? 緊張することに、理由ってありますか?」
「いやー、よくわかんないんだよね。オレ、これまでの人生の中で緊張したことないし!」
「……今まで? ただの一度も?」
八重樫さんは大きく目を見開いて、信じられないと言わんばかりにこちらを見つめてきた。やっぱり黒目が大きいな、とまじまじ見つめ返すと、ふいっと視線を逸らされてしまう。
「……あの。去年の夏、公式戦で一度ピッチャーやって……ましたよね?」
「え! 八重樫さん、なんで知ってんの!?」
八重樫さんに言われて、中学三年の夏の記憶が蘇る。チームメイトの怪我により、急遽リリーフピッチャーとして登板した試合のことだ。オレにピッチャーの経験はないし、公式戦で投げるのは当然初めての経験だった。あのときオレを指名せざるを得なかった、監督の苦渋に満ちた表情を、オレは今でも覚えている。
「た、たまたま見てて……き、気持ち悪くて申し訳ありません……」
「あー、そういや相手チーム西中だったっけ! 八重樫さん西中だもんな」
「よ、芳川くん、あのとき、緊張……しなかったんですか?」
「うん、全然。オレ、あんとき自分のこと大谷翔平だと思ってたからなー」
オレはもともと、逆境に立たされたときにこそ燃えるタイプだ。チャンスに打順が回ってきたら絶対に打ってやろうと思うし、試合や試験や発表会も、本番にもっとも強い。
「別に、失敗したところで命取られる訳じゃないんだしさあ」
「そ、そうですか? わ、私だったら、あんな場面に立たされたら舌噛んで死ぬなって思ってました。……芳川くんはすごいです。尊敬します」
そう言われて、オレの鼻は数センチほど伸びた。カワイイ女の子に頼られるのも悪くないが、褒められるのはもっと気分がいいものだ。単純なオレは、この子のためにオレができることならなんだってしてあげよう、という気持ちになってきた。
オレがパンをすっかり食べ終えてしまっても、八重樫さんのおにぎりはまだ半分以上残っている。スマホを確認すると、昼休み終了まであと十分だった。
「八重樫さん! もうすぐ昼休み終わるけど、それ完食できんの?」
「え!? わっ、あ、が、がんばります……!」
時計を見た八重樫さんはぎょっとして、慌てておにぎりを頬張った。もぐもぐと口いっぱいに頬張る姿も、やっぱりどん兵衛に似ていた。最初はびくびくしていたどん兵衛だって、いつのまにかオレに懐いていたのだから、八重樫さんともきっとすぐ仲良くなれるだろう。
「八重樫さん。オレ、八重樫さんのあがり症治せるように全力で頑張るから!」
「えっ! は、はあ……あ、ありがとうございます……」
「だからさ、まずはオレに慣れるところから始めようぜ。たまにここでこうやって、二人でメシ食おう。オレみたいなのと一緒にいたら、多少は肩の力抜けるんじゃないの」
自慢じゃないが、オレはよく周囲から「瀬那を見てるといろんなことがどうでもよくなってくる」と言われるのだ。八重樫さんはもっと、周囲に対して大らかな気持ちを抱いた方がいい。
オレの提案に、八重樫さんはぱちぱちと瞬きをした。それから下を向いてしばらく考えていたようだったけれど、ややあって「よろしくお願いします……」と囁くような声が響く。
オレが差し出した右手を、彼女は今度こそ、こわごわ握り返してくれた。
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