ネガティブガールは崇拝する

 私が〝神様〟こと芳川瀬那せなくんの存在を知ったのは、中学三年の夏のことだった。


 私は野球オタクである友人の真央ちゃんと一緒に、野球部の公式戦を見に来ていた。野球のルールもろくに知らなかった私も、三年間真央ちゃんに付き合わされた甲斐もあり、それなりに野球に詳しくなっていた。

 試合も大詰め、九回裏でワンアウト、ランナーは二塁。点差は一点差で、私たちの中学が負けていた。こちらのバッターは、三番でキャプテンの石川くん。ヒットを打てば充分逆転が狙えるシチュエーションだ。

 周りの応援にも熱が入り、私はけたたましい歓声に押し潰されそうになっていた。隣の真央ちゃんはスポーツタオルを振り回しながら、「おいこら成海なるみー! 何ボール球振ってんの!」と熱を入れて応援していた。みんな、どうしてこんなに大きな声が出るんだろう。周囲の熱気に飲まれながらも、私も固唾を飲んで見守っていた。

 ピッチャーの投げた球が、パシンと小気味良い音を立てて、キャッチャーが構えたミットに吸い込まれる。審判は「ボール」と宣言した。そして二球目、再び投げられた球を、バッターは勢いよく打ち返した。ピッチャーの目の前に飛んでいったボールは、ノーバウンドでグローブに収まった。ああっ、という落胆の声が周囲から漏れる。


「あれ? 向こうのピッチャー、どうしたんだろ」


 真央ちゃんの言葉に、私は相手チームのピッチャーに視線を向けた。見事にボールをキャッチしたはずの彼は、左手を押さえてその場にうずくまっている。今のキャッチングで、怪我でもしたのだろうか。相手チームながら、大丈夫かな、と心配になってしまう。

 幸いなことにピッチャーの彼はすぐに立ち上がったけれど、コーチらしき男の人は、グローブを脱いだ彼の手を見て、首を横に振った。まだ投げられます、いいやだめだ、というやりとりをしているのかもしれない。

 相手チームのベンチの面々が、絶望に満ちた表情を浮かべている。まだ一点差で勝っているし、あとひとつアウトを取れば終わりだというのに、まるでお通夜のような空気だ。


「……なんだか相手チームの人たち、すごく暗くない?」

「うん……控えのピッチャーがいなくなったんだよ。ベンチ入りの投手、もう全員出ちゃったし」

「え!? そんなことってあるの!?」

「一回交代した人はもう出られないから、仕方ないよね」


 じゃあ、一体今から誰が投げるんだろう。相手チームの選手たちがグラウンドの中央に集まっているのを、私はハラハラと見守る。しばらくして、甲高い声で球場アナウンスが流れた。


「……選手の交代をお知らせします。ピッチャー、高橋たかはしくんに代わりまして、芳川くん」


 ピッチャーに指名されたのは、さっきまでセンターを守っていた男の子だった。「まじ?」と周囲がどよめく。突如として指名された男の子は、小走りでピッチャーマウンドに向かう。

 突然こんなに重要な局面に駆り出された彼の心境を想像して、私の胃はキリキリと痛んだ。ああ、私だったら緊張のあまり舌噛み切って死んじゃう。半ば同情にも近い視線を向けた、そのときだった。

 帽子を脱いだ彼が、ユニフォームの袖で額の汗を拭う。私の見間違いじゃなければ――彼は至極楽しそうに唇の端を吊り上げて、笑っていた。

 ――こんな状況で笑えるなんて、どうかしている。

 私はマウンドに立った男の子を見つめながら、なんだか震えが止まらなくなってしまった。縋るように制服のスカートを握りしめた手は、汗びっしょりになっている。がんばれ、がんばれ。私は祈るような気持ちで、見知らぬ男の子へのエールを送っている。

 彼が大きく振りかぶって投げた球は、キャッチャーが構えている場所とは全然違うところへ飛んでいった。慌てて身体でボールを止めたキャッチャーに、彼は帽子を脱いで「ごめんごめん」とばかりに詫びている。相手チームのベンチはみんな真っ青になって項垂れているのに、彼一人だけが平気な顔をしている。

 二球目、彼が投げたボールがストライクゾーンに甘く入った。カキン、と音を立てて金属バットがボールを弾く。白球が青い空に高く高く打ち上がって、もうだめだ、と思ったそのとき。彼の代わりにセンターを守っていた男の子が、落ちてきたボールをギリギリのところでキャッチした。

 スリーアウト、試合終了。


「よっしゃー! アキヒト、ナイスキャッチ!」


 高々と拳を突き上げた彼は、ニカっと太陽のような笑みを浮かべた。遠く離れた観客席まで聞こえるくらいに、大きな声だった。


「あーっ! 負けたー! 惜しかったあ!」


 真央ちゃんは悔しそうに言ったけれど、私はほっと安堵の息をついて、へなへなとその場にへたりこんだ。もみくちゃにされている彼を見つめながら、よかった、と胸を撫で下ろす。もしここで彼が打たれていたら、私はきっと今夜うなされて眠れなかっただろう。

 あの人、すごい人だ。一発打たれたら終わりの絶体絶命の場面に駆り出されても、平気な顔して笑ってた。きっと彼の心臓には、毛がボーボーに生えているに違いない。

 ――私、もし生まれ変わったらあんな風になりたい。

 スタンドに向かってお辞儀をする背中を見つめながら、私は心の底からそう思った。


 それ以来、私は折に触れて彼のことを考えるようになっていた。緊張で死にそうになっているときに、彼の堂々としたピッチングを思い出すと、不思議と気持ちが落ち着いたのだ。

 いつしか私は心の中でひっそりと、彼のことを「神様」と呼ぶようになり、緊張しそうな局面になると「神様お願いします」と彼に祈りを捧げるようになった。

 だから、高校の入学式が終わって教室に入り、後ろの席に彼が座っていたときには、私は心臓が止まりそうになってしまった。


「あ、前の席女の子だ! これからよろしく!」


 そう笑いかけてくれた神様には、誇張表現ではなく後光がさしていた。

 それでもありがたやと拝むわけにはいかなくて、私は無言のまま頭を下げて、そそくさと前を向いた。きっと感じの悪い奴だと思われたことだろう。いや、私みたいな冴えない女のことなんて気に留めていないに違いない。ああすみません神様、いつもお世話になってます。

 自己紹介のときも、ボソボソと名前を言うのが精一杯だった私に対し、彼は教室中に響くほどの大きな声で「泉中出身の芳川瀬那です! 尊敬する人は大谷翔平選手です! 好きな食べ物はオムライス、好きなアイドルは……」と長々続けようとして、担任の先生に「もういい」と苦笑されていた。

 それからの私たちは前後の席だというのにほとんど言葉を交わすことはなかった。明るくていつも人に囲まれている彼に話しかける勇気なんてなかったし、向こうから話しかけられてもロクな返答ができなかったのだ。ときおり、何かしらプレッシャーを感じるような場面――たとえば、国語の授業中に教科書の音読を当てられたときとか――に、こっそり彼に祈りを捧げるだけの関係だったのだ。

 それなのに、私はどうしてあんなに血迷ったことを口走ってしまったんだろう……。




「え!? 紬、ほんとに芳川くんにそんなこと言ったの!?」


 あれから一日経った、昼休み。

 お弁当の卵焼きを口に運びながら、真央ちゃんが赤縁メガネの向こうの目を見開いた。私はもぐもぐと自作のバクダンおにぎりを頬張りながら、力なく頷く。


「ああ、どうしよう……絶対早まっちゃったよ……」


  ――……わ、私に……き、緊張しない秘訣を教えてもらえませんかっ!


 昨日の放課後のことを思い出すと、私は頭を抱えてジタバタと教室の床を転がり回りたくなる(当然、そんな目立つことができるはずもないけど)。

 あのときの私は、正気を失っていたのだ。六限の音楽の授業で、歌の試験があることを聞かされて。崇拝している芳川くんと二人きりというシチュエーションで。箒で床を掃きながら、ウララウララと調子っ外れの「狙い撃ち」を口ずさんでいる神様を見ていると、私は今この人に縋るしかないのかもしれない、という気持ちになってしまった。

 だからといって、あんな訳のわからないことを口走ってしまうなんて、どうかしていた。家に帰ったあとで己の失態を思い返して、晩ごはんもロクに喉も通らず、お風呂の中で死にたくなり、寝る前にベッドの前でジタバタと悶え、あまり眠れなかった。おかげで今日は眠くて眠くて仕方がない。


「……はあ……絶対なんかキモい女に変なこと言われたんだけど〜とか思われてるよ……」 

「そんなこと思うかな? あの人、何も考えてなさそうじゃない?」

「つむぎん、よくあんな陽キャ代表みたいな人に突撃できたよねえ」


 そう言って穂乃果ちゃんは、教室の中心で固まってお昼を食べている集団に視線をやった。いわゆるクラスのトップカーストの子たちが集まっていて、芳川くんはその輪の中で大きな口を開けて笑っている。相変わらず、少しの曇りもない眩いほどの笑顔だ。

 あんな太陽みたいな人に、教室の隅っこでコソコソおにぎりをかじっている私ごときが図々しいお願いをしてしまうなんて、もう死んでお詫び申し上げるしかない。

 昨日あんなことを言ったにも関わらず、芳川くんは今朝も普通だった。目が合うと「おはよう!」と明るく挨拶をしてくれたけれど、私はいつものようにぺこりと頭を下げて視線を逸らした。どうか、お願いだから昨日の私の奇行は忘れてください。そんな風に念じながら、じりじりと背中に感じる視線に気づかないふりをしていた。


「でもでも芳川くん、ちょっと良くない? めちゃイケメン! とかじゃないけど笑った顔がかわいいし〜。では高校野球オタクの真央ちゃん、芳川選手の評価をどうぞ」

「中学時代は一番センター。強肩俊足でバッティングはそこそこだけどプレッシャーに強くて、ここぞというところでの打率は四割越えてる。特にチャンスに代打で出てきたときはほぼ百発百中。もう少し安定したら充分レギュラーも狙えるんだろうけどね」


 瞳を輝かせた穂乃果ちゃんに、真央ちゃんはメガネの縁を持ち上げると、眉ひとつ動かさずすらすらと答える。しかし穂乃果ちゃんはその回答が不服だったらしく、不満げに頰を膨らませた。


「もー、そういうことを訊いてるんじゃなくてえ」

「言っとくけど私、野球選手が好きなわけじゃなくて野球が好きなんだからね。芳川くんのパーソナリティには微塵も興味ないから」

「とかいって、真央ちゃん野球部の成海くんと仲良いじゃん!」

「仲良くない。あいつはただの腐れ縁」

「つまんないなー、もう。高校生なんだからもっとときめく話しようよー! ね、つむぎん? これをきっかけに、芳川くんといい感じになったりしないかな?」

「と、と、と、とんでもない……!」


 穂乃果ちゃんの言葉に、私は震え上がった。

 昨日は血迷ってしまったけれど、私は神様とお近づきになろうだなんてつもりは毛頭ない。あのお方は、私なんぞとは住む世界が違う人間なのだ。至近距離であの眩い笑顔を浴びて、つくづくそう思った。


「そういや紬、そろそろリーディング当たる番じゃない?」

「うっ、そうだった。おなか痛くなってきた……」


 五限のリーディングの授業のことを考えて、私の胃はキリキリと痛み出す。ここ最近はなんとか難を逃れてはいたものの、たしかにそろそろ当てられそうだ。

 私はこっそり芳川くんの方を向いて、神様神様お願いします、と心の中で拝んでみる。どうか私に、授業中当てられてもすらすらとつっかえずに答える力をください。いや本音を言うなら、できたら今日も先生に当てられないようにしてください。

 やっぱりこうして、遠くから拝んでいるぐらいがちょうどいい。昔ギリシャのイカロスだって、太陽に近付きすぎて翼を焼かれたというではないか。


 二人とおしゃべりをしているうちに予鈴が鳴ったので、私はリーディングの予習をすべく自席へと戻る。テキストを取り出して睨みつけていると、トントン、と後ろから軽く肩を叩かれた。真央ちゃんか穂乃果ちゃんかな、と思った私は、反射的に首を回して振り向く。

 むにっ。


「アハハ、引っかかったー」


 ほっぺたに何かが突き刺さる感覚がしたかと思ったら、驚くほど近くに神様の顔があった。楽しげにケラケラと笑う彼は、私の頰に人差し指を突き立てている。


「よっよっよっ……よしキャワくんッ」


 動揺のあまり、思いっきり噛んでしまった。どうしよう、私なんぞのほっぺたに神様の指が! ニキビができてる左の方じゃなくてよかった、だなんて考えてる場合じゃない。


「な、な、な、なにを」

「なーなー八重樫さん、昨日のことだけどさあ。オレ、本気で協力したいと思ってるよ」

「ヒッ」


 突然昨日のことを持ち出されて、私は息が止まりそうになった。ああ、忘れて欲しいって言ったのに! やっぱりいいです、と言おうとしたけど言葉が出てこなくて、唇を震わせることしかできない。


「オレ放課後は部活あるから、昼休みとかでもいい? 明日一緒に昼メシ食おう!」

「あ、あ、あのあの」

「音楽室とか使えんのかな? オレ、明日マッキーに訊いてみる!」

「よ、よしかわく……」


 完全に思考がショートしそうな私の反応などお構いなしで、芳川くんは私のほっぺたをツンツンと人差し指でつついて、楽しげにニカッと笑った。


「八重樫さん、けっこーほっぺたモチモチしてんね!」


 やっぱりこの人の他人との距離感は、ちょっと異常だ。おそらくパーソナルスペースというものが存在しないに違いない。

 完全に思考の許容量を超えてしまった私は、予習していた英文の日本語訳なんて全部ふっ飛んでしまって、酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせることしかできなかった。

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