ポジティブボーイは勘違いする
人生において、「モテ期」なるものが三回訪れると聞いたことがある。
オレのモテ期の一回目は間違いなく、小学一年生の頃だ。当時のオレはクラスで一番足が速く、逆上がりもクラスで一番最初にできるようになった。休み時間になるとオレの周りには女子が群がり、「誰がセナくんと遊ぶか」を巡ってじゃんけん大会が催されていた。いやはや、輝かしい歴史である。
しかし、そんな薔薇色の日々は一瞬で過ぎ去った。「足が速い」なんてものは所詮一過性のステータスに過ぎず、一番人気の座はクラスで一番頭の良いサイトウくんに取って代わられ、その後はジャニーズばりのイケメンであるタケルくんがナンバーワンの座を譲らなかった。
それからオレは小学三年生の頃に少年野球を始め、それから野球漬けの毎日を送ってきた。中学に入ればかわいい女の子にハチミツレモンとか差し入れされるんじゃないかとワクワクしていたけど、そんなことはまったくなかった。二回目のモテ期はいつ来るのだろう、なるべく早く来てくれればいいな、だなんてことを考えていたのだが。
「あ、あ、あの、よ、
蚊の鳴くような声で名前を呼ばれた瞬間に、どうやら人生で二回目のモテ期が来たらしい、とオレは悟った。
今オレの目の前にいるのは、頬をリンゴよりも赤く染めて、潤んだ瞳でこちらを見つめる女の子だ。膝下丈のスカートをぎゅっと両手で握りしめる両手は小刻みに震えている。
放課後の教室にはオレと彼女の二人しかいなくて、少し開いた窓から吹き込む風がカーテンをぱたぱたと揺らした。吹奏楽部が吹いているトランペットの音が、どこか遠くで響いている。
オレ知ってる。こういうの、漫画で見たことあるぞ。このシチュエーションは、絶対に告白だ。やばい、生まれて初めて女子に告白されてしまう。
彼女の名前は
高校に入学してからおよそ二ヶ月が経つが、八重樫さんと親しく会話を交わしたことはない。が、名簿順に座っているので、「やえがし」さんは「よしかわ」であるオレの前の席だ。プリントを回してくるときもじっと前を向いたままで、普段はほとんど目も合わない。今日はたまたま掃除当番だったので、二人で教室に残っていただけだ。
それでも、もしかしたら――この子オレのこと好きなんじゃないかな、と思う瞬間はあった。オレがあさっての方向を見ているときはチラチラ視線を感じたし、彼女の方を見ると慌てて目を逸らされる。真っ赤な顔で恥ずかしそうにしている姿は、恋する乙女のそれとも言えなくはなかった。
そういえば、小柄で俯きがちな彼女の顔を真正面から見るのは初めてだ。わかりやすく華やかな美人、というわけではないけれど、肩まである黒髪をふたつに結んでいて、ぱっちりとした黒目がちの瞳が結構カワイイ。
どうしよう。こんなにカワイイ女の子が、オレの彼女になるかもしれない。いやいや、そもそも告白されたとして、オッケーするべきなのか? 部活も忙しいし、女の子と付き合うどころじゃないんじゃないか? ごめん今は部活に集中したいから、と断ってこそ部活に打ち込む硬派な男なんじゃないか?
そんなことをぐるぐる考えていると、八重樫さんはもう一度小さな声で「あの」と言った。意を決したようにぐっと拳を握りしめて、まっすぐこちらを見つめてくる。顔面はもう、発火しそうなくらいに真っ赤だ。くるぞ、とオレは思わず身構えた。
「よ、よ、芳川くんっ……」
「ハイッ!」
「わ、わたし、前から、芳川くんのこと、すごく堂々とした人だなあと思ってて……」
「ヘッ!?」
「……わ、私に……き、緊張しない秘訣を教えてもらえませんかっ!」
「……………………んん?」
完全に肩透かしを食らったオレの口から、間抜けな声が漏れた。予想外の申し出に、まじまじと八重樫さんを見つめる。
「……緊張しない秘訣ぅ?」
バカみたいに同じことを訊き返したオレに、八重樫さんはこくこくと何度も頷く。
「……えっと、学期末に、音楽の授業で歌の実技テストがありますよね……」
「あー。そういや、マッキーがそんなこと言ってたな」
八重樫さんの言葉に、オレは頷く。芸術科目は音楽と美術と書道の選択で、オレは音楽を選んだ。理由はひとつ、担当の
「……私、合格できる気がしなくて」
八重樫さんは両手で青ざめた頬を覆い、絶望に満ちた表情を浮かべている。オレが「なんで? あんなの最後までデカい声で歌えりゃ点もらえるじゃん」と尋ねると、彼女はぶんぶんと二つ結びを揺らして首を振る。
「そ、その〝最後まで大きい声で歌う〟のが至難の技なんですよ……」
「そうかなー? あ、もしかして八重樫さん音痴なの?」
「お、音痴では……ないと、思うんですが……」
ボソボソとそう言った後、彼女は小さな声で「自分ではわからないけど、もしかすると音痴なのかもしれない……」と項垂れた。ずいぶんとネガティブな女の子だ。
そういえば八重樫さんは、授業中に先生に当てられただけで、小動物のようにぷるぷると不安げに震えている。国語の授業で教科書を音読するときも、「なんて?」と訊き返したくなるくらいに声が小さい。そんな彼女にとっては、みんなの前で大きな声で歌うなんて行為は拷問に等しいのかもしれない。
「……みんなに見られながら歌うなんて、もう死んだ方がマシです……」
「八重樫さん、なんで音楽選んだの? 美術か書道にしとけばよかったのに」
「……真央ちゃんも穂乃果ちゃんも音楽にするって言うから……私、他に仲の良い子いないし……」
真央ちゃんと穂乃果ちゃん、というのはいつも八重樫さんと一緒にいる
「……きゅ、急に変なことお願いして、ごめんなさい……」
オレが黙っていると、八重樫さんの顔はみるみるうちに曇っていく。今にも泣き出しそうな表情で俯いてしまったものだから、オレは慌ててしまった。
「いやいや、全然大丈夫だから! 顔上げて! なんかオレが泣かしたみたいじゃん!」
「な、泣いてません……」
そう言いつつも、八重樫さんは下を向いたまま肩を震わせている。スカートをぎゅっと握りしめる手は白く色を失っていて、彼女の必死さがありありと見てとれた。
「……わ、私、もうどうしようもなくて……芳川くんだけが、頼りなんです……」
そう言って、八重樫さんはようやく顔を上げた。瞳には薄い涙の膜が張っていたけれど、たしかに彼女の言う通り、かろうじて泣いてはいない。縋るような目で見つめられて、オレは正直悪い気がしなかった。
思えば生まれてこのかた、誰かに頼られたことなんてほとんどない。中学の頃、教室にゴキブリが出たときに女子一同から「芳川、なんとかして!」と言われたのが最後だろうか。ゴキブリを素手で退治したオレを、女子たちはバケモノでも見るような目で見つめていたし、それからしばらく「半径二メートル以内に近付かないで」と言われていた。
――余計なことまで思い出してしまったが、カワイイ女の子に頼りにされるのは素直に嬉しい。それにオレは、期待されればされるほどやる気の出るタイプなのだ。
お願いします、と重ねて頭を下げた八重樫さんの肩を、オレはがしりと両手で掴む。彼女は目を見開いて「ヒエッ」と息を飲んだ。
「よっしゃ、オレに任せろ! 音楽のテストまでに、八重樫さんのあがり症治そうぜ!」
そう高らかに宣言したものの、八重樫さんの反応はない。不思議に思って彼女の顔を覗き込んで見ると、首まで真っ赤になって固まっている。ぶんぶんと片手を目の前で振ってみると、はっと我に返ったように動き出し、ぎくしゃくとロボットのように後退りした。
「じゃ、これからよろしく!」
握手をしようと右手を差し出すと、八重樫さんはみるみるうちに真っ青になり(赤くなったり青くなったり、忙しい子だ)、身体を二つ折りにして勢いよく頭を下げた。
「……や、や、や、やっぱりいいです! へ、へへへ変なことお願いしてごめんなさい!」
八重樫さんはそう言うと、鞄を引っ掴んで嵐のように駆け抜けていった。取り残されたオレは、ぽかんとそれを見送るしかない。
――オレはこれまで八重樫さんのことをおとなしい女の子だと思っていたけれど、もしかするとちょっと変な女の子なのかもしれない。
行き場をなくした右手を引っ込めると、ちょっと力入れただけで折れそうだったな、とさっき掴んだ肩の華奢さを反芻した。
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